「お前のこと怒るのは、期待してるからだぞ!」は都合が良すぎると思う
こんにちは、藤本(@Kentaro_Fujimo)と申します。
※このエントリは、僕が2016年10月に『note』で書いたものを、再編集したものです。
上司A「おい、B!しっかりやれよ!何回言わせるんだ!」
部下B「はい、すいません。。」
次の日…
上司A「なあB、昨日、お前をまた怒っただろ?」
部下B「はい。」
上司A「あれはな、俺がお前に期待してるからなんだぞ。誰も期待してないやつに怒ったりはしない。なにくそと思って、はい上がってきて欲しいんだ!」
部下B「はい、分かりました。」
何となくみなさんも、上の会話の画が想像できると思います。僕も現在、学生の身として飲食店でアルバイトをしていますが、同じような会話を幾度も見てきましたし、また、自分自身も何度か経験したことがあります。
「叱咤」から「反骨心」は芽生えるのか?
ただ、その時に生まれる感情は、怒ってくる上司への「憎悪」のみです。そこに「反骨心」などといった、良さげなものが生まれる余地はありません。
僕は最近、思うようになりました。
仕事場において上司が部下に怒るのは、ただのストレス発散や、その怒る部下への嫌がらせじゃないかと。
(学校などの教育の場においては、後述しますが、また別モノのような気がしています)
本当に期待しているから怒っているのか?
みなさん、『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』という本は知っていますか?3年ほど前に発売されてものすごく話題になり、現在でも「心理学の読み物」カテゴリで、ベストセラー1位になっています。
この本の中で、迷える少年と対話する哲人のおじいさんは、
怒りとは、出し入れ可能な「道具」である
と述べています。
具体例として、本文中から引用します。
あるとき、母親と娘が大声をあげて口論していたそうです。
すると突然、電話のベルが鳴りました。「もしもし?」。慌てて受話器を取った母親の声には、まだ怒りの感情がこもっています。
ところが電話の主は、娘が通う学校の担任教師でした。そうと気づいた途端、母親の声色は丁寧なものに変化します。
そのままよそ行きの声で5分ほど会話を交わし、受話器を置きました。と同時に、再び血相を変えて娘に怒鳴り始めたのです。
つまり、「怒り」とは電話がかかってくれば瞬時に引っ込めることもできるし、電話を切れば再び持ち出すこともできるのです。
この母親は、怒りを抑え切れずに怒鳴っているのではなく、ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を「利用」しています。つまり、「怒る」というのは、相手を屈服させるための安直な手段に過ぎないのです。
もしそうならバイト先の上司も...
僕はこの話を読んだ時に、目から鱗が落ちました。そして、最初のバイトの話をアドラー心理学に当てはめるなら、上司が仕事のできない部下に対して怒るというのは、「反骨心を促すため」ではなく「自らの憂さ晴らしをするため」だと言えます。
「怒り」が「反骨心」に変わる例外
ただ、例外的に怒られた側の「憎悪」のエネルギーが、うまく奮起の感情につながる場合もあります。それは、すぐさま「憎悪」のエネルギーを発揮する場面が存在する場合です。
例えば、スポーツの試合は思い浮かべやすいです。試合中に不甲斐ないプレーをした選手が、コーチに怒られることによってパワーを出すといった状況です。これなら、「怒り」の効用が全くないとは言えません。
ただ、これは変換されたパワーが「力み過ぎ」や「空回り」になってしまう危険性もあり、あまりオススメできませんが。
普段「怒り」が「反骨心」に変わらない理由
一方、大半の仕事においては「憎悪」が「奮起」になることはまずありません。なぜなら多くの仕事は成果が実際に出るのに、程度の差あれど、結構なタイムラグがあるからです。
怒られた直後は一時的にテキパキと仕事ができたとしても、憎悪の感情もそんなに長時間は持続しません。ホワイトカラーの方ならなおさら、頭にきて冷静に物事を考えられなくなったら、それこそ仕事になりません。
本当に期待しているから怒っている例外
ただ経験上、学校の場合では実際に「期待がゆえの叱咤」もあると思っています。同様に、「期待してない人には怒らない」も。僕は小中学校時代には何度も学級委員長をして、どちらかと言えば教師側からの視点で生徒を見ることもあったので、何となくそこらへんの気持ちはわかります。
僕の推測だと、月並みですがここの学校と仕事場の差は、「愛」だと考えています。「愛」があるからこそ、期待する。「愛」があるからこそ、怒ってしまう。
学校の先生は、やはり熱い想いを持った人がたくさんいます。僕が今まで出会ってきたほとんどの先生は、本当に生徒のことを想ってくれています。
担任がクラスの生徒の何から何まで面倒を見るという日本の学校システムだと、なおさらこの傾向は強まります。
ただ、学校ではない普通の会社などの仕事場では、上司もそんな他人に構ってないで、自分自身の仕事をしないといけないので、そこらへんの違いも大きな要因かもしれません。
やっぱり感情任せの「怒り」はダメだよ
あとまあ、単純に考えて「期待してるからだぞ!」って言われて何度も怒られてるっのて、ダメじゃないですか?いつになったらその期待に応えてくれるんですか。そんな人にいつまでも「期待」する、上司も上司です。
さいごに
以上、僕の『「お前のこと怒るのは、期待してるからだぞ!」は、都合が良すぎると思う』説についての、僕の考えでした。僕も現在の飲食店での勤務が1年ほど経ち、たくさんの後輩ができる中で、ふいに湧き上がってきた仮説です。
僕は仕事がなかなか覚えられない後輩に対して、「怒る」という手段を用いなかったので、この状況で怒る人と怒らない人の違いは、一体なんだろう?というのが出発点でした。もしこの仮説の答えが「真」なら、なかなか厄介です。
なぜならストレスの溜まった上司が、「期待」というお面を被って、ガンガン憂さ晴らししてくるということになってしまうからです。
将来、僕が責任を担う立場になった際への、自らの戒めとしても、このエントリを残したいと思います。
「自分怒りっぽいなー」と悩んでいる方は、『嫌われる勇気』を読むと原因がわかります↓
僕の最近のツイート↓
今まで凡退の打席が怖くて1打数1安打ばかり目指してきたけど、その1打席で確実に打つ技術はないし、世間ではそれよりも100打数30安打の方が評価されるということが、ようやく体に染み付いてきた。
— 藤本けんたろう (@Kentaro_Fujimo) 2018年1月9日
とりあえず間口を大きくとる、バットを振り続ける、そうやってとにかく打席の数を増やしていく😤
時事問題について考えるnoteを始めました↓