ファンがアシスタントになることの是非
こんにちは、藤本けんたろう(@Kentaro_Fujimo)です。
スタジオジブリが毎月発刊している、「熱風」という小冊子を読みました。
前記事に引き続き、神田松之丞(まつのじょう)さんの巻頭ロングインタビューから。
冊子より引用
神田さんのいる講談界では、後継者の不足が大きな問題になっているようです。
そんな中、若手講談師として人気な神田さんの元には、時折「弟子にしてください」という人が来ます。
貴重な後継者候補ではあるのですが、そんな若者に対して、神田さんは「僕のところに来る子は、講談に向いてない気がする」と切り捨てます。
なぜなら、神田さんは現在バリバリの30代プレイヤーで、教育に十分な時間と労力を割くことができないから。
本当に実力をつけたいと思うなら、60代くらいの人へ志願しに行くべきだと。
そこまでを考慮できてないのは、「センスがないと思う」とバッサリいっちゃってました。
そういった神田さんの本音に対して、インタビュイーの鈴木敏夫さんは、「この話、そうやって松之丞さんに憧れて来る人にはいい話だよね。」と言いました。
すると、神田さんは「憧れじゃダメなんですよね。自分がどうしたいか、そのためにどの師匠を選ぶのかという、もちろん好きというのもあるんですけど、この人のところに入って自分はこうしたいという青写真がない子は、ちょっと向いてないですよね。」と。
これ、めちゃくちゃ真理ですよね?!?!
本質を、ズブズブに突いてますよね?!?!
「ファンとして極限まで近づくこと」と
「自分のやりたいことのために、ベストプラクティスを選択すること」って、
本来は全く別の事象のはずです。
考え抜かれた末、そこの両事象が合致することもありますが、そうじゃない場合が多いです。
「憧れの人に近づくこと」が「自分のやりたいこと」として混同されてしまい、ファン側からしたらまあいいかもしれませんが、雇う側としては、求めている人物像とは、根本的に乖離してしまうのです。
ファンに来てもらっても、ファンという、本来は食わせてもらう者を逆に食わせなきゃいけないという(笑)。
神田さんが言っているこの言葉は、本来両者が求めている関係性のズレを、端的に表しているなと思います。
よく、鉄道会社は鉄道オタクを採用しないなんて言われますが、それも全く同じですよね。
鉄道オタクの人たちは、電車の近くに毎日いられるだけで、それで幸せです。
でも、鉄道会社の人たちにとっては、それでは不幸せなわけですよね。どうしたら、もっと社会に対して価値を提供できるのか、この強大なインフラを、今後はどう活用していくのかといったもっと俯瞰的な視点をもってほしいわけです。
ただ、じゃあ講談の例でいうと、全く神田さんのことを好きではない人が弟子になればいいのかといえば、そういうことでもなくて。
「自分のやりたいことのベストプラクティス」という大前提があったうえで、その上で自分は神田さんの講談に学ぶのが合ってる、神田さんの元でやるべきだと判断したのであれば、それは互いのwantが一致しています。
だから、神田さんに対して興味がある、関心があるというのは、必要条件の一つという位置づけです。
神田さんが話した後の、鈴木さんが出した例が、一つの理想的な形だと思います。
僕らの世界で「エヴァンゲリオン」をつくっている庵野秀明というのがいるんですけれど、あいつははっきりしていたんですよね。
ジブリへ入らないんですよ。あいつがまだ学生の時だったんですけれど、「『ナウシカ』を手伝いたい」と言って来るんですよね。
それで映画ができて終わった時に「だいたい宮崎駿のことをわかったんで」(笑)と言ってその後来ないんですよ。
しばらく経ったら、高畑勲が「火垂るの墓」をつくるというと、また来るんです。「おまえ、どうしたの」って言ったら「いや、ちょっとやりたいんで」って。
それでまたいまの話で「だいたい高畑さんのこともわかったので」(笑)。
これはまあ、お互いの最大公約数的な解だと思います。ジブリ側にとっては、若干最適解から離れているかもしれませんが。
庵野さんにとっては、「面白い映画を作りたい」という大前提のwantがあって、面白い映画をつくっているのが宮崎駿さんや高畑さんということで、彼らのもとへやってきたと。
宮崎さんや高畑さんのところへ行くと言うこと自体が、目的化してないんですよね。
それでもって、ジブリ側からすると、映画をつくるにあたって、目的意識があり、意欲と高い人物が手伝ってくれるという、まさにwin-winな状態です。
前述したように、ジブリ自体の後継を担ってくれないというミクロな視点で見れば、ジブリ側にとっては最適解ではないですが。
一つの最大公約数的な解ではあります。
今回のテーマであった、「ファンがアシスタントになることの是非」。
アシスタントとして近くに居続けるために、知恵を振り絞るという場合もあるかもしれませんが、近くにいるだけで目的が完遂されてしまい、その先がないことも多いです。
アシスタントになる側としては、本来ある目的の手段として、尊敬のする人や関心のある人と一緒に活動するのがベストな形で、結果としてファンがアシスタントになることもあるかもしれません。
しかし、仮に表面上はそういう形になったとしても、本来の目的があった前提じゃないと、中長期的に見たときにお互いにとってよくない関係性じゃよなーと思うのです。
失ったものを「失ってしまった……」と打ちひしがれているうちは、まだ本当には失えていない。
— 藤本 けんたろう (@Kentaro_Fujimo) July 7, 2018
失ったものに対して、「失ってしまったた……」という喪失感を失ったとき、はじめてそれを「失った」といえる。
失うと、どうなるのか?
本当に求めていたものが、手に入る。