藤本の日記(@Kentaro_Fujimo)

大学生の男です

まだ「個人情報」で消耗してるの?

それは、とある用事があり、母と車で少し遠出した時のことでした。普段、母は車に付属しているカーナビを使用するのですが、その日赴いた土地は最開発が進んでおり、僕たちの古いカーナビ上にはない道がたくさんありました。母が「運転しにくいなあ」と言うので、僕が「Google Maps使えば?」と提案すると、3秒ほどの沈黙が流れた後、衝撃の発言が飛び出しました。

 

「えっ、それって、GPS機能使うよね?」

 

母さん、おめでとう。この発言は直ちに、僕が独自に調査している「2017年上半期、母との会話で出できた衝撃発言ランキング」で、断トツの1位候補としてノミネートされました。

 

その後、いったん自分の頭の中を落ち着かせてから、真意のほどを聞いてみると、どうやらGPS機能をONにすることによって、自分が衛星に見張られている感じがして気持ち悪いのと、かつその位置情報を記録されるのがイヤだとのことでした。

 

ああ、なるほどね!.........................とはならなかった。。

 

僕は母のその感覚に対して、理解できなくもないですが、共感は全くできなかったので、目的地に到着したらすぐにOFFにすればいいから今はGoogle Mapsを使って、とゴリ押しして、とりあえずその場では事なきを得ました。もともと母がまあまあ保守的な性格である事は知っていたのですが、まさかここまでだったとは。で、僕は思いました。

 

「まだ個人情報で消耗してるの?」

 

確かに、5〜10年くらい前は「個人情報」とか「プライバシー」といった言葉が毎日のように叫ばれていました。その時、僕はまだ小学校や中学校に通っていたのですが、1学期に1回は警察官やネット関連の専門家みたいな人が来て、「個人情報は絶対に漏らすな!」「プライバシー遵守!」といった内容の講演を聞かされていました。

 

しかし、今後そういった感覚は、時代に合わなくなっていくように思います。環境は、変わり続けます。世の中、変わらないものなんてないですが、諸行無常だけはいつまでも不変です。そこで、5〜10年前と大きく変化したことといえば、当時は今ほどには影響力を持っていなかった、Google、Faceboook、Amazonといった巨大な一民間企業が、一国を凌ぐ力を持つようになり、僕たちの生活インフラとなったことです。そして彼らはその勢いをとどまることを知らず、日進月歩で便利になっています。

 

そして、彼らが僕たちにどんどん便利なサービスを提供してくれる源とは、一体なんでしょうか?めっちゃ頭の良い人たち?それはもちろんそうなんですが、いくら美味しい料理を出そうと思って、最高のシェフがいても、食材がなければ料理できません。では、その食材とは?それこそが、僕たちの「個人情報」であり、「プライバシー」なのです。例えば、冒頭の話の例では、GPS機能をONにすることによりGoogle Mapsに交通状況が集まり、その結果ユーザーに渋滞情報などを知らせてくれます。

 

support.google.com

 

Facebookは、ユーザーが誰の投稿に「いいね」をしたかなどの情報を収集することによって、そのユーザーにとって快適なニュースフィードを提供します。Amazonは、消費者がある商品を購入すると、同じ商品を購入した別の消費者が他に何を購入したのかをレコメンドします。そうやって、僕たちが自分の好きなものに出会う機会を増やしてくれます。他にも、個人情報やプライバシーとは言わないまでも、僕たち自身が持っている情報や行動をさらけ出せばさらけ出すほど、彼らはそれをビッグデータとして活用します。そうして僕たちの生活がより便利になっていくのです。

 

佐々木俊尚さんの「レイヤー化する世界」という本では、このような状況を「テクノロジーとの共犯関係」と表現しています。僕たち消費者側は、あまり気持ちの良いものではないかもしれませんが、自分自身の様々な情報を差し出せば差し出すほど、便利なサービスを利用できます。その一方で、GoogleFacebookAmazonといった企業側も情報を集めれば集まるほど、より良いサービスを提供して、よりお金儲けができます。そうして結果的に、本意か不本意かはいざ知らず、お互いの依存度は高まっていきます。このような意味で、僕たちは「共犯関係」にあるのです。

 

というかそもそも論として、SNSでアイコンには自分の盛りフォトをばっちり載せ、頼まれてもいない詳細な食レポを、何枚も撮り直しした写真とともに毎日投稿する承認欲求バブル期において、プライバシーもクソもないと思いますけどね。

 

 別に、むやみやたらと自分の情報を開示したり、よく分からない相手にまでプライバシーをさらけ出す必要はないです。ただ少なくとも、今Google Photosが自動で顔認識をしてくれるのは、僕たちがたくさんの「思い出」というプライバシーをさらけ出した結果だということは、頭に入れておきましょう。ちなみに、気になってる人もいると思うので補足しておきますが、「テクノロジーとの共犯」は別に犯しても罪には問われません。安心してください、無罪ですよ。

 

 

 

 

「松本人志のドキュメンタル」を観て、ガキ使を面白いと思った話。

先日、アマゾンプライムビデオで放送されている「松本人志のドキュメンタル」という番組を観ました。最近はそんなに見かけなくなりましたが、少し前はCMでバカみたいに宣伝されたので、知ってる人も多いと思います(この先多少ネタバレする可能性あります)。

 

僕も最初はそんなに興味が無かったんですが、TVつけてたら松本さんがやたら「やり過ぎちゃうか?アマゾン」って言ってるし、大学の期末テストが終わって時間があったし、そして何より「amazon student」に入会してからやっと半年経って、プライムビデオが視聴できるようになったことを家族に自慢したくて、視聴を決意しました。

 

番組の冒頭で、松本さんがこの番組の制作経緯について語ります。色々言ってたなかで、僕が印象に残ってる内容は、

「この番組は無駄な部分を一切削ぎ落とした。何もないけどふとした瞬間に笑ってしまうというのを、やってみたかった」

「この番組は決して万人受けするような番組ではない」

「究極の笑いを考えるひとつの材料にしたい」

「昔は世界で一番オモロイ人になろうと思ってたこともあったけど、その考えじゃ永遠に二番までにしかなれへんなと気づいた」

といった感じのものです。最後のコメントに関しては、深淵すぎて正確に理解するのは難しいですが、誰かに決められた尺度で勝負してるようじゃ、その尺度を作ってる人間(その人が一番)には絶対に勝てないってことなんだと思います、多分。

 

あまり知らない人のためにも、番組のルールを簡単に説明しておくと、主なルールは、「笑ったら負け」です。あとは、他の参加者を笑わせるためには何をやっても構わないということくらいです。笑ってしまった芸人はその場から退場しなければなりません。

 

ということで、実際にそのゲームが始まったのを観ていました。ですけど、なんか気持ち悪いんですよね。あ、芸人たちがではなく、僕の心の中がです。このモヤモヤはなんなんだろなーとか考えつつ観てたんですけど、途中から何となくわかってきました。それは、「ホントは大爆笑したいところで大爆笑できないから、気持ち悪い」んだなということです。例えるなら、めっちゃくしゃみが出そうなのに、なかなか出ない感じです。いや、この例えは微妙ですね。

 

観ていてときどき大笑いすることもあるんですが、なんとなく消化不良なままゲームが進んでいきました。別に、芸人さんたちが面白くないわけでもありません。でもなんだか、くしゃみが出そうで出ない、そんなモヤモヤした感じがありました。2回使ってしまいましたが、この比喩自体がモヤモヤします。

 

で、どんどん後半になるにつれて、なぜ「ホントは大爆笑したいところで大爆笑できない」のか、解明されてきました。それは、このゲームが「笑ってはいけないというルールで、本当に芸人たちが笑っていなかった」から、というものです。どういうことかというと、いきなり話は変わりますが、みなさん「吊り橋効果」というのを知っていますか?有名なものなので、聞いたことがある人も多いと思います。簡単に説明すると、吊り橋の上で誰かといると、本当は吊り橋の上にいるという恐怖で心臓がドキドキしているのに、今目の前にいる人のことが好きだから自分はドキドキしているんだ、と勘違いしてしまうということです。

 

もう少し脱線します。で、この「吊り橋効果」からは何が言えるかというと、人は自分の感情がよくわからない時(ここでは恐怖感を抱いているのか、好意を抱いているのかがわかないこと)、身体的な変化(心臓がドキドキする)に加えて、周囲の状況(今目の前に人がいる)も考慮して今の自分の感情を判断するということです。この感情決定プロセスを、心理学用語では「シャクターの情動の二要因理論」といったりもします。シャクターはこの理論を発表した人の名前、二要因は「身体的な変化」と「周囲の状況」の二つを指します。

 

本論に戻ります。そして、この情動の二要因理論を「松本人志のドキュメンタル」にも当てはめてみました。このゲームを視聴する際の感情の軸は、もちろん「面白いかどうか」、身体的変化は「笑う」、そして周囲の状況というのは「笑いを仕掛けている芸人に対する、周囲の芸人たちの反応」です。僕は思いました、「お笑い」がこういう構造をもつ時、「周囲の人間が笑っていないというのは、かなり致命的な欠陥だな」と。

 

なぜならば、ある人に身体的変化として「笑い」がこみ上げてきたけれども、その人がまだ自分自身の感情が「本当に面白いのか」「本当はそんな面白くない」のどちらであるかを判断できない時、重要となるのは「周囲の状況」、そしてこのゲームにおいてはそれは「周囲の芸人の反応」だからです。ここで周囲の芸人たちが笑っていれば「あ、これは本当に面白いんだな」と判断し、笑っていなければ「あ、皆笑ってないからそんなに面白くないんだな」と判断することになるのですが、このゲームにおいては、基本的な周囲の状況は圧倒的に後者が多いです。

 

これで僕の感じていた、「ホントは大爆笑したいところで大爆笑できない」モヤモヤの正体が、学術的に証明されました。一瞬、「あ、この芸は面白いかも」と思ってそこから大爆笑か否かの瀬戸際にいる時に、画面の前の他の芸人を観たら、誰も笑っていないのです。こうやって本当は面白い芸なのに、それを周囲の人が笑うことを意識的に我慢することによって、僕は「あ、そんなには面白くないんだ」と無意識的に判断してしまっていました。大爆笑をくしゃみに例えるという比喩は、案外適切だったのかもしれません。

 

ここまでくれば、本エントリの題名である『「松本人志のドキュメンタル」を観て、やっぱりガキ使が最強だなと思った話。』の意味もなんとなく理解していただけると思います。大晦日にやっているガキ使も、建前上のルールとしてはこのゲームと同じ「笑ってはいけない」なんですが、実情としては参加者みんな、めっちゃ笑っています。特に「ドキュメンタル」の主催者である松本さんなんかは、毎回5人の中でぶっちぎりの回数で叩かれて、その数は優に300を超えています。ガキ使の面白さの一つは、「笑ってはいけないのに笑っちゃう」というところにあるんだなーと、今回のエントリを書いていて思いました。

 

そうやって思い返してみると、「松本人志のドキュメンタル」を観ている中で何回か大爆笑したタイミングというのは、やっぱり誰か芸人が笑ってしまってリプレー検証をしている時なんですよね。ということで、「松本人志のドキュメンタル」、僕の中では星3.5個くらいですかね(5段階評価です)。ただ、松本さん自身も「このゲームは実験の一つと考えている」というようなことを言ってましたし、既に第2回の開催も決まっているようなので、今後このゲームがどういった展開を見せていくのか、楽しみですね。

 

 

 

第2回レビュー

fujimoto.hatenadiary.jp

 

第3回レビュー

fujimoto.hatenadiary.jp

富と名声を得るには、武藤遊戯になる必要があると思う。

皆さん、「遊戯王」というカードゲームを知っていますか?

 

ルールは、色々なカードを使って相手のライフポイントをゼロにするというゲームなのですが、僕が小学校高学年の時にめちゃくちゃ流行ってました。

 

今でもかなり流行ってるようですが、結構カードの種類が増えたり、ルールが変わったりしてるみたいで、僕はさっぱりついていけなくなりました。

 

そして、そのカードゲームが元にして作られたアニメ「遊戯王」の主人公が、「武藤遊戯」と言います。彼は最初、いじめられっ子の弱虫だったのですが、ある時、物語の鍵を握るアイテムのパズルを解きます。その瞬間、武藤遊戯の中にいる「もう一人の僕」が目覚め、彼はいわゆる二重人格のような感じになります。

 

その「もう一人の僕」というのは、最強に遊戯王が強く、ストーリーの普段の場面では元からの弱虫な方の遊戯なのですが、遊戯王でバトルをする場面になると、「もう一人の僕」にバトンタッチします。

 

ただ、ここで武藤遊戯が二重人格「のような感じ」であって、厳密には二重人格ではないのは、元祖遊戯と「もう一人の僕」の方の遊戯は、お互いにその存在を認識しているということです。つまり二つの人格が両立しています。

 

基本的にはどちらかの人格しか表に出てこないのですが、何か重要な意思決定を下す時などに、表に出ている方の遊戯が、心の中にいるもう片方の遊戯と会話します。

 

人格についてざっくり言えば、最初からいる方の遊戯は、誰にも恨まれないようなすごい優しさを持ち、とても謙虚な性格の一方で、「もう一人の僕」の方の遊戯は、常に強気で、どんどんと大胆不敵な手を打っていくと言う感じです。

 

僕は富と名声を得るためには、この「相反する2つの人格を自分の中で両立させている」ことが、大事だと思っています。

 

もっと厳密に言うと、「自信満々で自分は何でもできると思っている」人格(「もう一人の僕」の方の遊戯)と、「常に謙虚で、外から見れば自分を過小評価しているくらい」の人格(最初からいる方の遊戯)が同居している状態です。

 

よく、「自信」と「謙虚さ」って、成功するための条件として二元論で語られがちで、ネット上にもどちらか一方だけにフォーカスした記事が溢れています。

 

ただ、そうじゃないと思うんです。どちらかじゃなくて、両方必要なんです。

 

例えば、何かを成し遂げようとしてどんどんPDCAサイクルを回そうとする時、回せば回すだけたくさんの失敗を犯します。

 

その際、失敗を外部の責任にせず、素直に自分の非として受容するためには、「謙虚さ」が必要です。自分はまだまだ未熟だ、自分のこういう箇所がまずかったから、今回はダメだったんだという風に。そうすることによって、一回の失敗から多量のフィードバックを得ることができ、進歩のスピードが上がります。

 

ただ、トライアンドエラーを繰り返せば繰り返すだけ、つまり失敗を重ねていることになります。その際、自分の非を認め続けていると、自信喪失に陥ってしまう危険性もあります。PDCからの次に「A」ctionを起こす時に必要なのが、「もう一人の僕」、つまり自分はやれるんだという「自信」だと思います。失敗を正確に検証して、それを次の行動につなげるためには、「謙虚さ」と「自信」の両輪が必要なんです。

 

また、新たなチャレンジをする時にも、「謙虚さ」と「自信」が併存しているでしょう。今までの自分とは違うもの、つまり変化を許容するには自分はまだまだなんだという「謙虚さ」が重要になります。ただ、そのチャレンジを実際に実行するには「自分は絶対にこの取り組みを成功できる」という「自信」が突き動かしていくはずです。そういう意味でやっぱり、「謙虚さ」と「自信」の両面、必要です。

 

今まで見てきたように、高速でPDCAを回転させる中でできる限り効果的なフィードバックを得るためには「謙虚さ」が不可欠な一方、そのフィードバックを生かして次の一歩を踏み出すためのエンジンは「自信」です。また、新たな挑戦をする際にも、そう決心するきっかけとして「謙虚さ」が重要になりますが、その決意を実際に行動に移す時に大切なのは、自分はやれるという「自信」です。

 

どっちかじゃなくて、両方必要なんです。

 

以上、「富と名声を得るには、武藤遊戯になる必要があると思う。」を、まだ富も名声も得ていない無名の若者が書きました。