藤本の日記(@Kentaro_Fujimo)

自分をポケモンに例えるなら、メタモン。

「インターネット的:糸井重里」

 

こんにちは、藤本と申します。

 

インターネット的 PHP文庫

インターネット的 PHP文庫

 

 

この本、実は2001年に一度出版されたらしいんだけど、今になって話題沸騰らしく、若干の加筆を経て、2014年に再出版された。「10年以上も前にこんなことを書いていたなんて!まさに予言の書だ!」という盛り上がり方だったらしい。未来を書いた本じゃなくて、今を確認するための本だったら別に読んでも新しい知見を得られないから、別に読んでも意味ないんじゃないかとも思った。んだけど、最近遅ればせながら糸井さんの文章に興味が沸いてきたのと、「インターネット的」なものについての、確認の書なら確認の書で、それもインターネットの歴史に無知な僕の良い基礎固めになるなと思って、アマゾンボタンをポチった。

 

結論:めちゃくちゃいい本だった。

 

目から鱗だった。「ああなるほだな!」「ああ確かにな!」っていう話が盛り沢山だった。まえがきに「10年以上前に書かれたことはあまり意識せずに読んでください」って書いてあったから、あまり意識せずに読もうとしたけど、時折「これが10年以上も前に書かれたのか!」と思い出さずにはいられなかった。あの柔らかい文章からは想像できない、鋭すぎる先見の明。ホリエモンとええ勝負するんじゃなかろうか。色々とハッとする文章が多すぎて、マーカーを引きまくってしまった。文章がマーカーだらけになりすぎて、勉強できない中学生のテスト前の教科書みたいな感じになってしまった。でもそれくらい、マーカーを引きたくなる言葉が記されてあったんだ。

 

「ほんとに、話すように書く」

 

色々とありすぎて今マーカーを引いたところを見直しても、量が多すぎてハンパないから、とりあえず1つに絞る。僕にとっては「ほんとに、話すように書く」というところが最もビッグインパクトのある文章が詰まっていた。

 

糸井さんの文章は、易しくて優しい。

 

最初に少し書いたけど、この本を買った一つのきっかけが、「糸井さんの文章に興味が沸いたこと」だった。僕は今20歳で、コピーライター時代の糸井さんを知らない。「おいしい生活」が代表作の一つということを知ってるくらい。ほぼ日を立ち上げて、それが有名になってから、ここ1~2年で糸井さんの存在を知った。本を読んでいる最中にほぼ日のアプリをダウンロードして、今は毎日糸井さんの文章を読んでいるのだけれど、とにかく糸井さんの文章は易しくて優しい。なのに僕たちが日常の中で忘れかけていた何かを、ふと思い出させてくれる。易しい言葉で、優しく語りかけているのに、こころにズーンとくるものがある。なんでだろうと思っていたんだけど、「ほんとうに、話すように書く」というのを読んで、少し分かった気がする。糸井さんは僕たちに「書いている」んじゃなくて、「話している」んだ。だから、スーッと耳に入ってくる。平仮名が多いのも、そういう理由からだった。世の中の人は漢字を使いすぎでしょ、って。人間が話すときはその言葉が漢字か平仮名かなんて、意識しないでしょ、って。まあ確かにそうだなと。

 

世の中の人は漢字を使いすぎている?

 

昔、漢字を使って文章を書けるのは一種のステータスのようなものだった。言い換えれば「少し伝わりにくく書くこと」が書くことの目的だった。今でも、専門家同士のマウンティングや、逆に異分野の専門家との壁づくりのために、専門用語の過剰生産が起きている現場を度々見かける。でも今は「一億総書き手時代」。誰でも書けるし、誰でも発信できる。「書けること」が特権でもなんでもなくなった今、「書くこと」の目的は本来の、伝えること、わかりやすいことに戻るべきである、というのが糸井さんの文章からの、僕の解釈。

 

最近流行りの、「話すように書く」。

 

そこからつながって、糸井さんは最近対談原稿などの言葉遣いが、そのまま話し言葉になっていることにも言及。ひとり語りだけじゃなくて、対談形式のUIも、それに含まれるのかな。僕は今まで、あれは確かに分かりやすいけど、必要以上に噛み砕かれすぎて無駄な分量が多いなと感じていた。でも、そういうことだったのか。あれは、糸井さん曰く「あなたのわかりにくさに、つきあっていられません」という、読者サイドからの叫びの反映だったのか、と気づいた。

 

必要なのは役割分担。

 

対談原稿などが、しゃべったように書かれるようになった背景はわかったけど、でもやっぱり分かりやすく伝えようとしてる分、噛み砕いて噛み砕いて、冗長な感じが否めないのも事実。だから僕は全部の記事が話し言葉になる必要はないと思う。単に情報を収集したいときに、話し言葉はあまり効率が良くないように感じる。だから僕は、重苦しい話や専門的な難しい話などを分かりやすく伝えるときに、「話すように書く」という手段を利用すればいいと思う。書き言葉との棲み分け。

 

実際に自分が書く側としては。

 

糸井さんのこの文章を読んで、僕も書く側として考えたときに、少し人に話すような文調に変えてみた。変わってるかわからないけど。意識はしている。でも、熟語、つまり漢字はなかなか捨てられない。というか、これは捨てなくても良いかなと思っている。熟語は便利よ。何かこう表現したい思いがあるときにそれにピタッと当てはまる熟語や言葉が言い回しが思い浮かぶと、とても気持ち良い。これを易しい語彙で説明しようとすると、無駄に長ったらしい文章になってしまうし、貧相なパーツでツギハギに作った出来損ないのぬいぐるみみたいな文章になってしまって、どうも気が進まない。糸井さんは深いことを簡単な言葉で表現できる術を持っているけど、僕にはそれがない。まだ小難しい話を、小難しい言葉でしか伝えられない。

 

僕はホリエモン派。

 

ちなみに、ホリエモンは熟語が好きらしい。短い文字量で、効率よく適切な意味を伝えられるのが良いらしい。僕も今のところは、こっちのスタンス。ピッタリとした表現が見つかって気持ちいいというのは、読者を無視したただの自己満という可能性もあるかもしれない。けど僕は、知らない語彙や表現に出会って、コピペしてググって、「こんな意味なんだ!こんな読み方をするんだ!」という瞬間が結構好きだ。だから僕は今のところ、自分も熟語や小洒落た言い回しを使って、僕の思いを伝えていこうと思う。

 

 

 

 

 

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