藤本の日記(@Kentaro_Fujimo)

大学生の男です

僕が「引用」をしなくなったワケ。あとそれによる副産物とかの話。

 

こんにちは、藤本けんたろうです。

 

Twitterで10連投くらいしたので、まとめておきます。セルフToggeter。

 

 

①これ読んだら、この前『Amway』の勧誘を受けたときに、向こうの人たちが「僕たちは世間では胡散臭いと思われてるけど」って、自分たちで言う理由が少し分かった👏
最初は「なんでそんな自分たちの悪評を、自分たちでバラすんや?」と疑問やったっけど。

 

②いま思えば、あれも一種の"共感"やったんやね。「おれたちは、あんたが今、自分たちを半信半疑なんは分かってるで!」っていう。
Amway』の勧誘に至っては、トークスクリプトが完成されすぎていて、途中から「へぇ営業ってこんな感じでやるんやあ」ってすごい勉強になりながら聞かせてもらったわ😊

 

③そう言えばいつからかは忘れたけど、多分数ヶ月くらい前から、記事をシェアするときに「引用」をしなくなった。前はめっちゃしてたけど。
きっかけは、ちきりんさんが「いかに引用をせずに、本の感想ブログを書けるか」と言っていたことだと思う。
それが僕には、記事をシェアする時にも派生してきた。

 

④そもそも本の感想を書く際に引用をしないのは、「感想ブログでは本の要約をするんじゃなくて、その本を読んだ上での自分の考察を書く」方が自分の血肉になるから、といった理由だったように思う。
僕もまずは、本を読んだ感想ブログでそれを実践した。

 

⑤要約をするんじゃなくて、読んだ上でそこにプラスα自分が考えたことを乗っけたり、本の内容を自分はどう実生活で生かしていくのかなど。
とにかく、本の内容を「1」としたら、僕はそこから「10」も「20」も吸収しようとした。

 

⑥それをブログでやり始めてから、次第に記事をSNSでシェアする時にも「響いた箇所の引用」がメインじゃなくて、「響いた箇所を自分はどう思ったのか」とか「自分はどう生かしていこうか」というのを、できる限り付け足すようになった。
少なくとも、コピペオンリーでのシェアはここ数ヶ月はしてない。

 

⑦でも記事中に「刺さった文言」というのはどっちにしろあるわけで。
最近は、記事中の刺さった文言と同じ内容の文言を、できるだけ自分の言葉で言い換えるようになった。
コピペならそれだけでも何となく分かった気になれるけど、自分の言葉で換言しようとすると、ある程度は咀嚼してないとできないから

 

⑧要は何が言いたいかっていうと、「要約よりも自分の考えを述べたほうが血肉になる」ということで始めたコピペ放棄だけど、仮に要約でも「コピペ」か「自分の言葉で言い直すか」の違いだけで、体への染み込み方が変わってくるよって話。

 

⑨実際、NewsPicksでよく意見を参考にしてる堀江(貴)さんは、コメントする時に絶対にコピペしないよなと思った。「〜ってことね」っていう要約風のコメントの時でも。これに関しては、単にコピペの作業が面倒くさいだけかもしれないけど😅

 

⑩だから僕の最新エントリも、今回のメインは『編集会議』にあったえとみほさんの記事の要約(最後に少し僕の雑感)なんだけど、コピペはほとんどしてない。仮にコピペしたとこも、一言一句全部自分で打った😊

 

最新エントリ↓

fujimoto.hatenadiary.jp

 

⑪「自分の言葉で要約する」と「コピペ」の間に、もう一個「一言一句同じ内容を、自分で打つ」というのがある。その過程で、自分の体に染み込ませていく。
まあこれは、『編集会議』がKindleじゃなくて紙しかないから、そうせざるを得ないっていうオチなんだけど。

 

以上です。10連投どころか11連投。いや、最初のツイートも合わせると、12連投でしたね。 

 

記事のアイキャッチ用意するの面倒くさいので、最近ようやく読み始めた『キングダム』のリンク貼って、それをアイキャッチにしておきます。『キングダム』、面白いですね。

 

キングダム 1 (ヤングジャンプコミックス)

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SNSブランディングの本当の意味

 

こんにちは、藤本けんたろうです。

 

『編集会議2017秋冬号』にて、えとみほさんこと江藤美帆さんの「編集者のためのSNSセルフプロデュース」という記事が、編集者以外にもとても役に立つので、自分の頭の整理も兼ねてまとめておきます。

 

  

ちなみにえとみほさんは、『スナップマート』という、一般人が投稿した写真を売買する"写真版メルカリ"のような事業をやっている会社の社長です。

 

※この先は、冗長になるので「〜だそうです」は使いませんが、全部えとみほさんの発言を僕なりに解釈したものです。

 

注力すべきは断然Twitter

 

どれだけオワコンだと言われようが、セルフプロデュースの点において有効なのは、やはり「Twitter」です。

 

1番の魅力は、なんといってもその「拡散力」。フォロワーが少ない人でもコンテンツさえ刺されば、一気に万単位の人までコンテンツが届きます。

 

つまり、Twitterで拡散されるには「何人にフォローされるか」ではなく「誰にフォローされるか」が重要です。例えフォロワー数自体は数百人でも、その中にアルファツイッタラーが数人でも混じっていれば、自身のツイートが拡散されやすくなります。

 

そこで、そういったアルファツイッタラーにフォローしてもらうため、僕たちがすべきことは、まず最低条件として「有益な情報を提供する」こと。

 

そして次に、この有益な情報を「見つけて」もらう必要があります。具体的には、

 

①相手をフォローする(当たり前)

②ときどきお気に入りをつける("ときどき"が肝心で、やりすぎると逆効果)

③共感したツイートにリプライを飛ばす

④その人の名前を入れてツイートする(エゴサーチで見つけてもらう)

 

といった方法で、相手に存在を認識してもらいます。

 

 編集者がすべきツイート

 

基本的には自分が有益と感じる情報なら何でも良いですが、一つやらない方がいいのは「過度の宣伝」です。「担当書籍の感想をリツイートする」のは、ときどきなら効果は高いですが、毎日大量にやられるとフォローを外したくなります。あとは、有名人著者とのツーショット。

 

一方でありがたいのは、出版イベントやセミナーの実況ツイート。これは情報として有益なので、仮に宣伝であってもOKです。あとは、編集者自身の見方やものの考え方がわかるようなブログを書くのも有効な手段です。

 

結局、編集者にとってのSNS活用の着地点は「この人面白そうだから会ってみたい」とか、「この人と一緒に仕事がしてみたい」と思われることだからです。

 

SNSブランディングの真の意義

 

「セルフプロデュース」というと、ついつい自分を"盛る"ことをイメージしがちですが、むしろありのままの自分を知ってもらうほうが良いです。(心構えとしては、僕が最近見つけた下のツイートがいいなと思いました)

 

 

そのためには、やはりブログが効果的です。140文字では収まりきらない内容を、語弊なく詳細に伝えやすいです。

 

ただ、ブログの素晴らしいところは、実はSNSのフォロワーを増やすことではなく、自分と考えが合わない人を遠ざけられるところです。「合いそうな人」を引き寄せるだけじゃなく、「合わなそうな人」を傷つけずに遠ざけることができます。

 

このように人間関係を知らず知らずのうちにデザインできることこそが、SNS最大のメリットです。

 

まとめ(※最後は僕の感想)

 

最後の「SNSによる恩恵」の話で、大どんでん返しがきました。そこまでは「なるほど、えとみほさんはそうやってフォロワーを増やしていったんだな」と読んでいたんですが、実は真逆の「人を遠ざけられること」にメリットを見出していたとは。。

 

ただ、ブログやSNSを通して自分の考えを発信することのメリットは、とても分かりやすくまとめてくれていて、あとは最後の大どんでん返しな話も、僕にはなかった視点なので勉強になりました。

 

少し前にちきりんさんもブログで書いていたように、

 

d.hatena.ne.jp

 

これから先、その人の人となりを知る手段として、面接や履歴書なんかよりSNSの発言履歴」の方がよっぽど重視される時代が来ます。

 

つまり、フォロワーを増やす「結果」を目指すなかで、「自分はこういう人間だ!」ということをどんどんと深堀していく「過程」にこそ、セルフプロデュースの本当の価値があるのかもしれないなあなんて思いました。

 

※ちなみにえとみほさんは、「リアル版ちきりん」という二つ名を持っているのだとか。

 

僕の最近のツイート↓

 

これからコミュニティは、「ハイクオリティ×グローバル」or「ハイコンテクスト×ローカル」のどちらかを目指す

 

こんにちは、藤本けんたろうです。

 

すこぶる前になりますが、『編集会議』を読みました。その中で、稲着達也さんという方の『これからのコンテンツ×プロデュース論』が参考になる記事だったので、まとめておきます。

 

 

特に僕は今年から、noteにて『日コレ』というはてなとは別のブログを始めて、そちらを何とかメディア化させていきたいので、そのことを念頭に置きつつ読みました。

 

fujimoto.hatenadiary.jp

 

稲着さんによると、これからのコンテンツ消費は大きく2パターンに分かれます。

 

①「ハイクオリティ×グローバル」

②「ハイコンテクスト×ローカル」

 

の2パターンなのですが、少し前まで成立していた「ハイクオリティ×ローカル」の組み合わせは消失しました。

 

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記事より引用しました。

 

なぜなら、インターネットとSNSによって情報がグローバル化したため、世界最先端を半歩遅れて国内で紹介するコンテンツに、価値を感じにくくなったからです。

 

結果として、"ハイクオリティ"なものは①のように、そのままグローバルで通用するくらいのものでないと、成立しなくなりました。

 

一方、②「ハイコンテクスト×ローカル」という組み合わせは、比較的新しいコンテンツ消費の仕方です。

 

こちらは逆にインターネットとSNSの恩恵を受け、創り手と受け手がより濃く、そしてコンテンツを「自分ごと」として消費しやすい環境になりました。

 

②「ハイコンテクスト×ローカル」では、100万人のライトファンを獲得するよりも、1000人のコアファンを中心としたローカル経済圏を形成するほうが、マネタイズの可能性が高まります。

 

そして僕がnoteで始めたブログ『日コレ』は、この②「ハイコンテクスト×ローカル」のコンテンツ領域を目指します。

 

そもそもテキストベースで言語の壁があるのと、①「ハイクオリティ×グローバル」の場合、稲着さんによると「世界基準の卓越性」を後天的に身につけるメソッドを体系化するのは難しく、かつ体系化できても世界中が競合になるため、マネタイズの難易度が上がります。

 

逆に②「ハイコンテクスト×ローカル」 は、比較的新しい領域でもあるので、まだ勝負できる余地が残されているそうです。

 

②の領域でやっていくための、今後の僕のステップとしては、まだ今はこっちから一方的に価値を提供するフェーズです。

 

「自分ごと」で「一緒にコンテンツを作る段階から加わる」と言っても、まずは僕が一人で面白いコンテンツを作らないと、誰も寄ってきません。

 

「その面白いコンテンツを自分も作りたい!」という動機から「自分ごと」は始まるので、まずは僕自身が面白いコンテンツを作って、人を呼び寄せる必要があります。今はまだ、その段階です。

 

ただ、布石のようなものは打っていて、note『日コレ』の方では僕のプライベートやパーソナルな情報も時おり混ぜています。

 

これによって、note『日コレ』を読めば読むほど僕への親近感がわき、②の条件の一つである「ハイコンテクスト」につながるのではないかなと考えています。

 

今回の稲着さんの記事は、後半にかけてさらに面白くなっていきます。

 

どうやら消費者の中にも、大きくわけて2ターンあるようです。

 

A.「オタク」的消費層

B.「リア充」的消費層

 

です。

 

A.「オタク」的消費層は、特定のシーンやジャンルについて深掘りすること自体に価値や楽しみを見出します。

 

一方、B.「リア充」的消費層は、対象について深掘りすることよりも、対象を起点としたコミュニケーションに重きを置いています。深掘りこそしないものの、話題性のある事柄であればリアルでもネットでも、積極的に共有活動をします。

 

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記事より引用しました。

 

この時、コンテクストの強度を担保する上で、より上位の「生産支援」「生産」活動に積極的な参加を見せるのがA.「オタク」的層であり、下位の「共有」活動に積極的なのがB.「リア充」的層です。

 

ただ、稲着さんによると、ここで気をつけなければいけないのは、A.「オタク」的層とB.「リア充」的層は、その特性ゆえに融合しづらいという点です。

 

よりハイコンテクストを志向すれば、A.「オタク」的層の参加を促せますが、コミュニティの濃度が高まり過ぎると、B.「リア充」的層の参加を阻んでしまいます。こうなると、かなりスケールが難しくなります。

 

そこで、たとえ②「ハイコンテクスト×ローカル」を目指すとは言え、コミュニティ内に多様性を担保し、B.「リア充」的層を受け入れる態勢を整える必要があります。

 

例として稲着さんが挙げられていたのは、

「あえてコミュニケーション量を減らす→コメント、メッセージ機能をつけない」

「超少数・超高濃度のコミュニティは分割する→分科会やスレッドの活用」

などです。

 

この記事で、僕のnote『日コレ』の運営方針は2.3歩先くらいまでは見えてきたので、まずは人が集まるような魅力的なコンテンツづくりに心血を注ぎます。

 

僕の最近のツイート↓

 

これ日コレ↓

note.mu

 

『編集会議』記事紹介は、次エントリでもう一つ参考になった記事を紹介します↓

 

Twitterフォロワー300人に満たない僕が、noteで投げ銭制マガジンを始める7つの理由。をはてなブログで書く

 

こんにちは、藤本(@Kentaro_Fujimo)と申します。

 

ちょっとよく分からないタイトルで失礼します。

 

とりあえず最初に、僕が今回したことを言っておくと、『note』で投げ銭制のマガジンを始めたということです。

 

そして本エントリでは、この『はてなブログ(以降はてな)』に加えて、なぜ新しい書き場所を作ったのか?そしてなぜ、その場所に『note』を選んだのかについて、7つの理由をもとに話します。

 

 

まず今回、『note』で新しくマガジンを始めた一番大きな理由は、

 

 ①僕を応援してくれる人(=僕を核としたコミュニティ兼メディア)を作りたかった

 

からです。

 

去年1年間、僕は嫌というほど実感しました。

 

「あ、僕にはファンがいない…」

 

ということを。

 

昨年はVALUやTimebankといった、新しい経済の到来を感じさせるサービスが次々とリリースされました。そして僕はその度に「僕が今ここで上場しても、誰も支援してくれないなあ」と、自身の非力っぷりを噛みしめていました。

 

だから僕は、noteでのマガジンは僕を応援してくれるような人、言い換えると僕のファンをつくるために、運営します。

 

「そんなのらこのはてなブログでいいじゃないか」と思った人もいるかもしれません。これのアンサーも兼ねて、次に2つ目の理由を話すと

 

②まずは目の前にいる人に喜んでもらえるようになる

ためです。

 

これの真意を話す前に、一旦最初の話に戻りますが、僕はファンの不在を嘆いている時、同時にこうも思っていました。

 

「もし僕に、何か人に提供できる特別な技能があればなあ。それさえあれば、僕だって今すぐに上場申請するのになあ」と。

 

でもこの考え方は、間違っていました。今思えば、ただの言い訳だったのかもしれません。

 

そんな時、去年大躍進を遂げた編集者の箕輪厚介さんが、本づくりの際のマーケティングについて話されていた内容が、僕の脳天に突き刺さりました。

 

細かい文言は忘れましたが、内容としては

 

「ペルソナ設定で、"30代の営業ビジネスマン"なんて広すぎる。誰か一人だけに憑依して、その人に徹底的に刺さる本を作る。

憑依するというのは、その人はランチに何を食べるのか、唐揚げ定食なのかコンビニ弁当なのか、そこまで徹底的に考え抜く。

その一人に超絶刺さる本こそが、結果的に消費者一人一人となってマスに広がることになる」

 

というものでした。

 

ちなみに"その一人"というは、自分自身が一番自分が憑依しやすいので、箕輪さんは自分が絶対に欲しいと思う本を作るようにしている場合が多いようです。

 

家入一真さんも、「サービスを作るのは、好きな人に手紙を書くような気持ち」と、同じような内容のことを度々言っていました。

 

その話を受けて自分を顧みたとき、僕はあまりにも視線を遠くにやりすぎて、自分の周囲をないがしろにしすぎて、結局どこにも何にも届いていませんでした。

 

というのは、僕の現時点での、はてなブログの読者とTwitterのフォロワー、実は9割9分が実際には面識のない方々です。今でこそ実名顔出しでやっていますが、始めた当初は恥ずかしさからハンドルネーム&顔伏せでやっていました。

 

fujimoto.hatenadiary.jp

 

意識高い系と揶揄されるかもしれない、知っている人に自分の文章を恥ずかしいという思いがありました。

 

ただ、最近になってようやく気づきました。

 

友達や家族もロクに満足させられないような奴が、全く赤の他人に自分の価値を提供できるはずないわ!!!

 

 

本来、赤の他人よりも、友達や家族の方が喜ばせやすいし、喜んでもらいやすいはずです。にも関わらず、今までの僕はカッコつけて、周囲の人にすら価値を提供できないで、個人の時代だ!信用経済だ!と騒いでいました。

 

だからnoteでのマガジンは、まずは友達や家族に僕を応援してもらえるような価値を意識した運営で、やっていきます。僕の文章を読んでくれる人の顔を思い浮かべながら、テーマを選び、そして、言葉を綴ります。

 

このはてなブログは、僕の自己満備忘録場として、僕の書きたいことを書きなぐる場にします。

 

そして、新しくnoteを始める3つ目の理由は、

 

③ライティングに磨きをかけるため

 

です。別に最初からnoteありきで考えたわけではなく、優先すべきことは①②で話したように、「まずは目の前の人に僕を応援してもらえるように、自分が何かすることでその人に喜んでもらう」ことです。

 

それが達成できれば、表現方法は何でも良かったのですが、まずはライティングという表現方法に磨きをかけたいので、書きものにしました。

  

fujimoto.hatenadiary.jp

 

 

④時流に乗ったライティングをしたい

 

そしてこのはてなとは別で、新しくnoteに書き場所を作った4つ目の理由が、「時流に乗った」ライティングを身につけるためです。

 

カツセマサヒコさんが、ライターとしての力は、

 

A.時流に乗ったライティング

B.誰にも求められてない深掘りしたライティング

 

の2つに大別されると言っていました(と僕は解釈しました)。

 

このはてなブログは、B.の僕が好き勝手に書く場所です。

 

noteの方で扱うテーマは、時事問題です。内容を一言でいうと、大事なんだけどイマイチよくわからん時事ニュースを、整理していこうというものです。

 

これをやれば、A.の「時流に乗る力」をつけられるんじゃないかなーと考えています。

 

⑤情報は発信する側が、一番勉強できる

 

というのが、5個目の理由です。これは結構、実利的なものです。時事問題について、最近は世の中の流れが早すぎて、僕もついていけてないなーと思うことが時々ありました。

 

こうしてアウトプットすることをある意味強制してしまえば、その過程として必然的にインプットの質も高まります。つまりこのnoteは、僕自身のためでもあります。

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noteアイコン。境界が見えなくて、ただのでっかい文字になってしまった
 

最後2つの理由は、どうしてその書き場所に『note』を選んだのかについてです。

 

やはり一番大きな要因は、

 

⑥課金機能がある

 

からというものです。

 

ある意味ここがはてなと一番違うところかなーとも思っていて、今のはてな含めた多くの書き場所って、書き手への感謝を吐き出す出口がイマイチないんですよね。これは「書き手と読者がコミュニケーションを取る手段」とも言い換えられます。

 

シェアや感想が一種のそれに当たるのかもしれませんが、信用経済だ評価経済だと言われようが、世の中はまだまだ「貨幣経済」を中心に回っています。貨幣が一番力を持つ現状において、そこで価値の対価として貨幣をもらえるというのは、やっぱり大きなことだと思うのです。

 

fujimoto.hatenadiary.jp

 

noteにこうして感謝の吐き出し口がしっかり確保されているのは、やはりとても良いことだと思います。

 

それが要因かは分かりませんが、noteははてなブログに比べて、読者と書き手の距離感が違い気がします。もっと奥深い設計が隠されているのかもしれませんが。

 

fujimoto.hatenadiary.jp

 

そんなnoteで書こうと思った最後のひと押しは、最所あさみさんのツイートでした。

 

 

僕が始めるのは月額制ではなく投げ銭制ですが、ある程度安定して投げ銭をもらえるような状態になり、かつ僕が月額制に値する面白いコンテンツを安定して出せる力がついたかなと判断したら、月額制マガジンに挑戦しようかなーとも考えています。

 

とりあえず大事なのは、僕の役立ち度が、貨幣という数字で可視化されるプレッシャーとうれしさを味わうことです。

 

そして最後7つ目が一番ゆるいんですが、

 

⑦noteの使い心地を体感する

 

です。というのも、昨年深津貴之さんがジョインされて以降、noteは鬼に金棒と言った感じで、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いです。そんなノリにのっているプロダクトは、自分の手で触っておかなければならないなという、一種のミーハー心です笑

 

新しくnoteで書き始める理由は、以上の7つなんですが、結構肝心の「なぜ時事問題を扱うことにしたのか」という理由を書いてませんでした。

 

時事問題を扱うにいたった背景

 

③の何か書くぞ!まで決まった時、僕は同世代の友達に対してどうやったら役に立てるだろうと考えて、実は結構早い段階で「時事問題を扱うこと」は候補に入っていました。

 

自分で言うのもなんですが、僕は同世代の友達の中では情報感度は高い方だと思うので、情報アービトラージは結構いい線いくんじゃないかとは思っていました。すいません、「アービトラージ」って一回言ってみたかっただけです。

 

ただ、それが即決にならなった理由は、僕自身が「時事問題を僕の持ち味にしたくない」と考えていたからです。

 

僕の考えとしては、日々の情報をインプットしてアウトプットするのは、手段というか最低限の土台でしかありません。それを踏まえた上で、何をするかが大事だと思っています。だから、僕がここで時事問題に特化してしまうのは、「手段の目的化」になってしまう気がして、時事問題をコンテンツの核に据えることに抵抗がありました。

 

 

ただ同時に思い返したのは、僕が大学生になってニュースを一生懸命見始めた時に、そのニュースに関する背景理解が全くなくて、ニュースがニュースとして入ってこないことが多々あったシーンでした。

 

今、僕の同級生が就活を意識し始めて情報摂取への熱が上がってきたところで、僕と同じ状況に直面するかかもしれない。就活生じゃなくても、世の中の流れについていきたいのに、情報が複雑でイマイチよくわからないという友人がいるかもしれない。

 

僕は当時、意味不明で内容が頭に入ってこない日経新聞を読みながら、「隣に池上彰がおってくれたらなー」と思っていました。

 

そんなわけで、もし、僕のこの"手段"が、そしてこれまで培ってきた思考力と情報量が、そういった友達の役に立てるなら、それは取り組む価値があるんじゃないかと思いました。

 

また、逆にもしこれで皆んなの役に立てたなら、別に皆んなが皆んな特別な技能を持っていなくても、どうにか役に立ちたいという思いさえあれば、誰かの役に立てるんだということの証明になるんじゃないかとも思いました。

 

こういう一段落の葛藤を経て、僕は時事問題をnoteの核に据えることにしました。

 

実際にnoteを公開してみて

 

Twitterのフォロワーに僕のリアル友達は片手ほどもいないので、note一発目の記事はリアル友達がいるインスタとフェイスブックにて告知しました。

 

どんな反応があるんだろう、というか、そもそも反応あるんかなという不安も若干あったんですが、インスタでもFbでも、両方でたくさんの人にいいねやシェア、コメントをしてもらい、Twitterはてなブログでもらってきたいいねやシェアとはまた違った喜びがありました。

 

そして、うれしさとは別に、リアル友達から貰えた"いいね"からは、もう一つの感情が生まれました。

 

それは、「責任感」です。

 

今、友達からもらったこの"いいね"は、僕のコンテンツだけでなく、僕自身への(期待も込めた)いいねでもあると思います。すごく、身が引き締まる思いです。

 

今後noteを運営していくにあたって念頭に置いていること

 

ちなみに、僕を応援してくれる人を作っていくにあたって、一つ頭の片隅に置いていきたいなーということを書いておきます。それは、

 

僕自身だけじゃなくて、発信するコンテンツ自体もしっかりと価値あるものにする

 

ということです。

 

ファンになってもらうということは即ち、僕自身のキャラクターも一つのコンテンツとして楽しんでもらうということですが、そればっかりに頼ってしまうと、僕自身の切り売りみたい感じになってしまって、持続性のないものになります。コンテンツ自体と発信者自体の両方に魅力あってこそ、意味あるものだと思うのです。

 

 

 

だから僕は、これから自分自身も一つのコンテンツとしてやっていきますが、それと同時に、そこから発せられるコンテンツの価値にもこだわっていきます。

 

最後に

 

今までは10人いたら、僕のことを笑うもしくは無視する9人に視線がいってしまって、恥をかきたくなくて、コソコソとやっていました。

 

でも今は、そのうち1人の応援してくれる人に向かって、ありがとう!と言える心構え、、、少なくとも心意気はできました。

 

 

予定では、noteが一通り友達や知り合いの間で普及したタイミングで、このTwitterの垢もnoteの方で公開しようかなーと思っています。この激アツエントリを友達に告知するのは、今このタイミングではないなと直感的に判断しました。だから、今回noteへの熱い思いをはてなで書くという愚行に走っています。

 

 今回始動するnoteへの僕の思いは、だいたいこれで詰め込められたと思います。

 

 

人生、どんだけプライド捨てて恥かけるか、どんだけボケ役になってツッコミを誘えるか。

 

億万長者の堀江貴文さんが、R-1グランプリに出て幼児の格好しているのを見ると、まだまだ僕は恥をかき足りてないです。

 

2018年、無駄なプライド捨てて、もっともっと恥かいて、思いっきりボケていきます。

 

始めたnote↓

note.mu

 

「お前のこと怒るのは、期待してるからだぞ!」は都合が良すぎると思う

 

こんにちは、藤本(@Kentaro_Fujimo)と申します。

 

※このエントリは、僕が2016年10月に『note』で書いたものを、再編集したものです。

 

上司A「おい、B!しっかりやれよ!何回言わせるんだ!」

部下B「はい、すいません。。」

 

次の日…

 

上司A「なあB、昨日、お前をまた怒っただろ?」

部下B「はい。」

上司A「あれはな、俺がお前に期待してるからなんだぞ。誰も期待してないやつに怒ったりはしない。なにくそと思って、はい上がってきて欲しいんだ!」

部下B「はい、分かりました。」

 

何となくみなさんも、上の会話の画が想像できると思います。僕も現在、学生の身として飲食店でアルバイトをしていますが、同じような会話を幾度も見てきましたし、また、自分自身も何度か経験したことがあります。

 

「叱咤」から「反骨心」は芽生えるのか?

 

ただ、その時に生まれる感情は、怒ってくる上司への「憎悪」のみです。そこに「反骨心」などといった、良さげなものが生まれる余地はありません。

 

僕は最近、思うようになりました。

 

仕事場において上司が部下に怒るのは、ただのストレス発散や、その怒る部下への嫌がらせじゃないかと。


(学校などの教育の場においては、後述しますが、また別モノのような気がしています)

 

本当に期待しているから怒っているのか?

 

みなさん、『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』という本は知っていますか?3年ほど前に発売されてものすごく話題になり、現在でも「心理学の読み物」カテゴリで、ベストセラー1位になっています。

 

この本の中で、迷える少年と対話する哲人のおじいさんは、

 

怒りとは、出し入れ可能な「道具」である

 

と述べています。

 

具体例として、本文中から引用します。

 

あるとき、母親と娘が大声をあげて口論していたそうです。

すると突然、電話のベルが鳴りました。「もしもし?」。慌てて受話器を取った母親の声には、まだ怒りの感情がこもっています。

ところが電話の主は、娘が通う学校の担任教師でした。そうと気づいた途端、母親の声色は丁寧なものに変化します。

そのままよそ行きの声で5分ほど会話を交わし、受話器を置きました。と同時に、再び血相を変えて娘に怒鳴り始めたのです。

 

つまり、「怒り」とは電話がかかってくれば瞬時に引っ込めることもできるし、電話を切れば再び持ち出すこともできるのです。

 

この母親は、怒りを抑え切れずに怒鳴っているのではなく、ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を「利用」しています。つまり、「怒る」というのは、相手を屈服させるための安直な手段に過ぎないのです。

 

もしそうならバイト先の上司も...

 

僕はこの話を読んだ時に、目から鱗が落ちました。そして、最初のバイトの話をアドラー心理学に当てはめるなら、上司が仕事のできない部下に対して怒るというのは、「反骨心を促すため」ではなく「自らの憂さ晴らしをするため」だと言えます。

 

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「怒り」が「反骨心」に変わる例外

 

ただ、例外的に怒られた側の「憎悪」のエネルギーが、うまく奮起の感情につながる場合もあります。それは、すぐさま「憎悪」のエネルギーを発揮する場面が存在する場合です。

 

例えば、スポーツの試合は思い浮かべやすいです。試合中に不甲斐ないプレーをした選手が、コーチに怒られることによってパワーを出すといった状況です。これなら、「怒り」の効用が全くないとは言えません。

 

ただ、これは変換されたパワーが「力み過ぎ」や「空回り」になってしまう危険性もあり、あまりオススメできませんが。

 

普段「怒り」が「反骨心」に変わらない理由

 

一方、大半の仕事においては「憎悪」が「奮起」になることはまずありません。なぜなら多くの仕事は成果が実際に出るのに、程度の差あれど、結構なタイムラグがあるからです。

 

怒られた直後は一時的にテキパキと仕事ができたとしても、憎悪の感情もそんなに長時間は持続しません。ホワイトカラーの方ならなおさら、頭にきて冷静に物事を考えられなくなったら、それこそ仕事になりません。

 

本当に期待しているから怒っている例外

 

ただ経験上、学校の場合では実際に「期待がゆえの叱咤」もあると思っています。同様に、「期待してない人には怒らない」も。僕は小中学校時代には何度も学級委員長をして、どちらかと言えば教師側からの視点で生徒を見ることもあったので、何となくそこらへんの気持ちはわかります。

 

僕の推測だと、月並みですがここの学校と仕事場の差は、「愛」だと考えています。「愛」があるからこそ、期待する。「愛」があるからこそ、怒ってしまう。

 

学校の先生は、やはり熱い想いを持った人がたくさんいます。僕が今まで出会ってきたほとんどの先生は、本当に生徒のことを想ってくれています。

 

担任がクラスの生徒の何から何まで面倒を見るという日本の学校システムだと、なおさらこの傾向は強まります。

 

ただ、学校ではない普通の会社などの仕事場では、上司もそんな他人に構ってないで、自分自身の仕事をしないといけないので、そこらへんの違いも大きな要因かもしれません。

 

やっぱり感情任せの「怒り」はダメだよ

 

あとまあ、単純に考えて「期待してるからだぞ!」って言われて何度も怒られてるっのて、ダメじゃないですか?いつになったらその期待に応えてくれるんですか。そんな人にいつまでも「期待」する、上司も上司です。

 

さいごに

 

以上、僕の『「お前のこと怒るのは、期待してるからだぞ!」は、都合が良すぎると思う』説についての、僕の考えでした。僕も現在の飲食店での勤務が1年ほど経ち、たくさんの後輩ができる中で、ふいに湧き上がってきた仮説です。

 

僕は仕事がなかなか覚えられない後輩に対して、「怒る」という手段を用いなかったので、この状況で怒る人と怒らない人の違いは、一体なんだろう?というのが出発点でした。もしこの仮説の答えが「真」なら、なかなか厄介です。

 

なぜならストレスの溜まった上司が、「期待」というお面を被って、ガンガン憂さ晴らししてくるということになってしまうからです。

 

将来、僕が責任を担う立場になった際への、自らの戒めとしても、このエントリを残したいと思います。

 

「自分怒りっぽいなー」と悩んでいる方は、『嫌われる勇気』を読むと原因がわかります↓

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

僕の最近のツイート↓

 

時事問題について考えるnoteを始めました↓

note.mu

 

ペンとスケッチブックは使わずに大阪から東京までヒッチハイクした話。

 

こんにちは、藤本(@Kentaro_Fujimo)と申します。

 

※これは2016年8月に僕が『note』で書いたエントリを、一部加筆修正して再掲したものです。

 

2016年8月8日、僕は大阪のド南にある「岸和田サービスエリア(以後SA)」に身一つでいました。なぜか?それは、お金はないが、時間と気力だけは持て余した大学生がやりがちな、そう、ヒッチハイクをやるためです。


きっかけは、堀江貴文さんのベストヒット作「ゼロ」の中で、堀江さんが学生時代にヒッチハイクをして、自分の殻を破ることができたと書いてあったことです。

 

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 

 

ヒッチハイクについて興味をもち、ネットで色々と調べていると、「ゼロ」きっかけでヒッチハイクを始めた人が結構いました。


僕もそのうちの1人に仲間入りしました。1年ほど前にこの本を読んで、「大学生の間に絶対にヒッチハイクをしよう」と決めました。知らない人に声をかけたり、断られたり、お話ししたりする経験すべてが自分の糧になると思ったし、何より面白そうだったからです。


そして迎えた今年の夏休み、タイミング的にもここしかないなと思い、ルートは僕の住んでいる関西からスタートして、大阪ー東京に設定しました。

 

ヒッチハイク前日


前日にしたことと言えば、「ヒッチハイク コツ」でググって、5個くらい体験談のサイトを見たことくらいです。あと、ルートは常に高速道路で行こうと思っていたので、とりあえず最初にスタートするSAまでの行き方くらいです。

 

体験談も読んで何となく行ける自信もついたので、その日はそれで寝ました…。

 

ヒッチハイク初日

 

「初日」があるのは、つまり、、、「2日目」があるからです。

たかだか大阪から東京まで行くのに、2日もかかってしまいました...。


厳密に言えば、1日半ですが。初日に寝坊したので。


朝起きたら、昼の1時でした。僕の予定では、最初のSAでお昼の12時頃からヒッチハイクを始める予定だったので、そこに着くまでの3時間ほどを逆算して、朝の9時には出発する予定だったのですが、起きた時に既に昼になってしまっていました。


仕方なくそこから身支度をし、30分後くらいに家を出ました。家から最初のSAまでは、電車とバスと徒歩で行きました。

 

「そこのSAまでもヒッチハイクで行けよ」と思ったかもしれませんが、「ヒッチハイクをするための心の準備」をするためには、この移動時間はマストでした。家の近所から始めるのは、何となく気が乗らないので。

 

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クソ炎天下の中、最後はよく分からない山道を抜けて、汗だくで最初のSAに到着しました。もうこの時点で既に午後4時です。呑気に記念の写真を撮った後、とりあえず起きてから何も食べずに家を出てきたので、ここで今日はじめての食事をとりました。

 

この後、ここであと2回も食事をすることになるとは、知る由もなかったですが…。

 

簡単に食事を済ませたあと、ここのSAに置いてあった「西日本SA・PAマップ」を手に取り、建物の外に出ました。いよいよ、念願のヒッチハイクスタートです!!

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3時間後、僕は同じSAで、今日の夜食としてカツカレーを食べていました。

Q.それはなぜか?

A.ヒッチハイクに失敗したからです。

Q.それはなぜか?

A.夕方の5時以降にSAに寄る人は、もうこの後は一般道に下りて帰宅しかしないからです。

 

5.6人ほどに声をかけたのですが、皆、異口同音に「ごめんね、これからもう帰っちゃうんだ」と断られました。


暗くなっていく大阪の空と僕の気持ちは、もう誰にも止められませんでした。

1時間ほどトライしましたが、やがて「今日はもう無理だ」と悟り、その日のヒッチハイクは諦めました。

この時、同時にこの24時間SAで一夜を過ごすことも自動的に決定しました。

この時点で午後6時です。僕は寝るまで何をやればいいんだー!?


仕方なくやりました、ポケモンGO。この夜だけで3Lv上がりました。(3→6ですが)


かといって、バッテリーはあんまり消費したくないので、ポケモンGOやネットサーフィンをするのも限界があります。

もう22時ごろに無理やり横になりました。

「イートインエリアの一角で横になってるイタイ奴」という視線はつらいし、自動ドアが開くたびに侵入してくる虫はウザいしで、なかなか大変でしたが。


それでも翌日は早朝から再開すると決めていたし、しっかり体を休めておかないと明日持たないと思っていたので、何とか目を閉じて眠りに入ろうと努めました。

明日はヒッチハイクが成功することを祈りながら…。

 

ヒッチハイク2日目(急に文調が変わります)

 

朝起きたら、5時だった。ぐっすり眠れた度は「30」くらい。明かりと虫とひと気で、2時間おきに目が覚めた。けど、そんなことも言ってられない。僕は今日、何としても東京に行かなければならないのだ。

 

7時。身支度を済ませ、ヒッチハイクに取りかかる。まさか同じSAで、3食も連続で食べることになるとは思わなかった。


狙うべき条件の車は、朝から東へと向かう、男1人の営業車。(理由は後述します)

 

早速発見、20台後半くらいだろうか。プレートの地名は「奈良」。近いけどまあいい。とりあえず僕はここから動きたかったし、何よりも「ヒッチハイク成功」という勲章を、一刻でも早く手に入れたかった。

 

少し駆け足で近づいていき、笑顔で声をかける。


「すいません!僕、今大学生で、ヒッチハイクしてるんですけど、乗せてもらえませんか?」
「おお、いいよ」


ヒッチハイク成功だ。僕は今、ヒッチハイクに成功した。笑顔で助手席へと乗り込む

 

だけど、僕は1分後にこの車を降りた。


(お兄さん)「どこを目指してるの?」
(僕)   「東京です!」
(お兄さん)「俺、次のインターで下に降りちゃうよ」
(僕)   「………」

 

僕は致命的ミスを犯した。行き先を言わなかった。車に乗せてもらうときは、まずは行き先を告げなければならない。タクシーだって一緒じゃないか!

 

その後の何度かの失敗と改良を経て、とりあえず落ち着いた僕の声かけセリフはこうだった。


「すいません!僕は今大学生で、ヒッチハイクで東京を目指してるんですけど、次のSAまででもいいので、乗せていただけませんか?」

 

「次のSAまででも」の文言を入れたのは、「東京」というワードを出した途端、相手方の反応が急に鈍くなるからだ。いや、そこまでは行かないよ、と。僕はそこまでじゃなくていいから、とりあえず乗せてくれという意思を明確にするために、「次のSAまででも」の文言も入れた。

 

その後、僕はようやく最初のSAを脱出することができた。スマホの時計を見ると、「7:30」となっていた。乗せてくれた方は、自営業でピアノの調律師をしており、今日は三重までの営業ということだった。

 

その方は、昨日たまたま奥さんと「ヒッチハイクしている子を、1回くらい乗せてあげたいなー」と言った会話をしていたらしい。なんという偶然だろうか。

 

9時30分。三重県の伊賀に辿り着いた。ありがとう、ピアノの調律師さん。1度成功してしまえば、なんだかよく分からない勇気が湧いてきた。

 

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そこから僕は怒涛の3連続成功を成し遂げた。自分すごいんじゃね?って思った。自分いわゆるコミュニケーション能力あるんじゃね?って思った。


僕は愛知県まで進んだ。さあ、昼休憩に少しピリ辛のラーメンでも食べよう。

 

午後4時。僕は昼ごはんを食べたSAで、少しばかりの仮眠から目覚めた。自分でもなぜか分からない。なぜか、僕はこのSAで8人連続、ヒッチハイクに失敗した。炎天下の中、乗せてもらえそうな車を探して歩き回り、汗が止まらなかった。そして、失敗も止まらなかった。この間、僕はどれだけ仕切り直しのお手洗いに行ったか分からない。

 

ここは大胆な仕切り直しが必要だと、僕は仮眠をとっていたのだった。もう心身ともに疲弊しきっていたし、何か大きく流れを変えたかった。

 

顔を洗い、お手洗いを済ませ、SAの売店で今日4回目のヨーグリーナを購入。もう店員さんになんと思われてもいい。よし、ここから再スタートだ!

 

再スタート1人目、僕は会心の笑顔で声を掛けた。40代のスーツ姿の男性だった。成功した。やった、ありがとう、本当にありがとう。


車に乗せてもらうと、「ちょっと待ってね」と携帯を触っている。チラッと目をやると、画面にポッポが見えた。これまでで最高級のイージーさで、会話のきっかけがつかめた。僕は言った、

 

「よく分からないんですよ、ポケモンGO

 

次のSAで僕は車から降りた。次の車を探すためではない。次のポケストップを探すためだ。


話していると、こちらの想定以上に、乗せてくれた方が熱心なトレーナーだった。どうやら、出張先のホテルでの合間時間は、せっせとポケモンGOに勤しみ、レベルも当時の8月上旬の時点で、15くらいあった。


その一方で僕はレベル6で、昨日の夜に3レベ上げた時も、3回目くらいの起動だった。

 

僕は進化の仕組みや卵の孵化のさせ方など、色々と質問攻めした。そこには、スマホネイティヴであるはずの青年が、40代のおじさんにスマホゲームのやり方を教えてもらうという、奇妙な光景が広がっていた。

 

静岡についた。時間は午後7時30分。午前中の快進撃を思えば、この時間でこの場所というのは、なんとも情けない。ただもう、そんなことは言ってられない。何としても、僕は今日中に東京に着く。

 

静岡のSAで、僕はポケモンGOおじさんとお別れをする、はずだったのだけれど、なんとここで次のヒッチハイクを手伝ってくれるという。そして、駐車した隣の車がちょうど出発しようとしており、僕が気付いた時には、もうポケモンGOおじさんは、隣の車の方に声をかけていた。

 

そして、なんとOKだった。多分だけれども、ヒッチハイクで乗せてくれた人が、次のヒッチハイクの車を見つけてくれたのは、日本初じゃないかと思う。もしも誰かいたら、ゴメンナサイ。

 

しかもなんと、その方の行き先は東京だった。これで東京に行ける。ありがとうポケモンGOおじさん、本当にありがとう。ポッポは無事ピジョットになったよ。

 

午後10時30分。上野駅到着。最後の方との3時間ほどのドライブでは、その方が3.11当時、仙台にいたらしく、その時の凄まじいリアルな体験を話してくれた。3時間は、あっという間だった。

 

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そこから僕は、電車で東京にいる友達の家へと向かった。途中、お昼の時点では夕方頃には着くだろうと調子に乗って、「晩御飯一緒に食べようぜ」なんてLINEもしていた。

店を決めた。時間まで決めた。それは全部、パーになってしまった。けれどもこの際、そんなことはどうでもよかった。とにかく僕はヒッチハイクで大阪から東京まで行けた。その事実が、僕にとっては財産だ。

 

だけど、僕はこのことも忘れないでおこうと思っている。ヒッチハイクについてググっている時に、見つけた言葉だ。

 

ヒッチハイクをしていると、時々俺すごいんじゃね?っていう錯覚に陥ることがある。けれども本当にすごいのは、いきなり声をかけて来た見ず知らずの人を、自分の車に善意で乗せてあげる人の方だ」

 

優しく車に乗せてくれた人も、声かけたのに僕を無視した人も、みんなありがとう。その経験すべてが、僕にとっての糧になる。

 

僕のヒッチハイクのやり方(そして「ですます調」へ戻ります)

 

ヒッチハイクと言えば、多くの人は、左手にスケッチブック、右手にサムアップのあのおなじみのポーズを思い浮かべると思います。

 

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僕も実際、ヒッチハイクしたことを友達に話したら、「ヒッチハイクって、こうやってやったの?」と、上記のお馴染みのポーズをされました。


しかし、僕は今回、サムアップポーズをしていなければ、そもそもペンとスケッチブックを持っていっていません。

 

ではどうしたのか?結論から言えば、「声かけ」で車に乗せてもらいました。

 

これは堀江貴文さんの著書「ゼロ」で、堀江さんが大学生時代にヒッチハイクをしていた時のやり方の、完全なパクリです。


冒頭にも書いた通り、僕は「ゼロ」を読んでヒッチハイクをしようと志したのですが、その際に詳述されていたやり方を、僕は採用しました。


理由は、僕がヒッチハイク「目的」ではなく、「手段」と割り切ったからです。僕の目的は「ヒッチハイクすること」ではなく、「東京に辿り着くこと」でした。

 

だったら、最も効率的な方法でヒッチハイクを行うべきと考えました。一般道で、走っている車をスケッチブックを掲げて待ち続けるより、SAで止まっている車が密集していて、そこで声をかける方が明らかに賢いです。


合理主義者の堀江さんがヒッチハイクをしたらこういう方法にたどり着きます。

 

ただ一方で、ネットを見ていると、意図的にペンとスケッチブックの方法でヒッチハイクをしている人がいました。理由は堀江メソッドは「簡単」だから面白くないというものでした。


ここら辺は価値観の違いというか、ヒッチハイクが「目的」なのか「手段」なのかというところで別れてきます。どっちが良いとか悪いとかはありません。

 

僕の分析では、スケッチブックを掲げて車を待つやり方は「楽」だけれども「難しい」。一方で自分から声をかけるやり方は、「大変」だけれども「簡単」といった感じです。


そして、ヒッチハイクが「目的」の人は前者のやり方を採用し、「手段」として捉えている人は後者を選びます。

 

体験記などを読む限り、前者のやり方だと、車がよく通る道や、減速しやすい場所にポジションをとるなどの工夫をしたとしても、限界があります。地域、時間帯、曜日などによっては車がなかなか通らず、何時間も乗れないということもザラにあります。


これが僕が「難しい」という所以です。ただ、ポジションさえ決めれば後は笑顔で立っているだけなので、「楽」です。

 

ヒッチハイクが「目的」の人は、このなかなか乗れないという苦労や過程も込みで、ヒッチハイクと考えているのではないでしょうか?これも醍醐味の一つだという風に。

 

一方で、後者のペンとスケッチブックを使用しない「声かけ」は「簡単」です。だってそこらじゅうに止まっている車があるんですから。ヒッチハイクする者にとっては、宝の山が目の前に広がっています。

 

けど「大変」です。自分から声をかけないといけないからです。知らない人に声をかけなきゃいけない、しかも身勝手なお願いをするために。

 

これはなかなか勇気のいることです。僕も1人目に声をかけるのに、結構な時間がかかってしまいました。しかも1人目に断られると精神的にやられます。「ああ、ダメだった」みたいな感じで。

 

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先ほども言った通り、どちらの方法が良いとか悪いとかはありません。ただ、仮に「どちらかの方法でやるなら、どっちをするべき?」と聞かれれば、僕は後者の方をオススメします。

 

理由は「観察眼を養える」からです。僕は初日に断られ続け、2日目には少しずつ成功体験を積む中で、どんな人、どんな車が乗せてもらいやすいかというコツを掴んできました。

 

まずは、時間帯とナンバープレートを擦り合わせて、僕が行きたい方向の車かどうかを探ります。午前中に地元の車を見れば、これから遠出するからいけるなとか、逆に夕方に地元の車だと、今から一般道に下りて帰宅だからダメだな、といった具合です。

 

後は車の種類と乗車している人の雰囲気を確かめます。例えば、そんなに大きくない車で男1人だと、確実に営業車です。こういう人は、日頃は音楽でも聞きながら寂しく運転しているので、乗せてくれて色々と話していると、「いやー、隣に人がいるのはいいね。」などとつぶやいていました。

 

というか逆に、ヒッチハイクで車に乗せてもらって僕ができるお返しと言えば、楽しくお話しすることくらいしかありません。途中までは車に乗せてもらうことに対して感謝と申し訳なさの複雑な感情を抱いていたのですが、そのことに気づいてからは、一生懸命、精一杯楽しく会話することを心がけました。

 

他に挙げると、定年退職したくらいの60代、70代くらいの夫婦の方も親切に乗せてくれました。こういった方々は、お子さんの年齢が僕と同じか、少し上くらいです。お子さんと僕が重なる部分が少しあるのか、心配して乗せてもらいました。車の中でも、食料や体力を気遣ってくれて、非常に優しい方が多かったです。

 

こうして自分のなかにデータを蓄積させていくと、声かけヒッチハイクは「大変」だけど「簡単」なものから、「楽」で「簡単」なものへと変わります。

 

そういう意味でも、ヒッチハイクが「目的」ではなく「手段」の人は、声かけヒッチハイクがオススメです。

 

※2018年1月8日追記

 

僕はこの後、2016年11月には福岡→兵庫のヒッチハイクも敢行しました。一度目のヒッチハイクを終えた時、「もうしなくていいかな」と思っていたのですが、少し時間が経つとまたあのドキドキ感を味わいたくなってしまいました。

 

大学在学中に、あと1〜2回はしたいなーと思っています。

 

色々と得られるものも多いので、迷っている人は一度やってみることをオススメします!

 

変なハウツー本読むより、『ゼロ』読んだ方がヒッチハイクの成功率は高まります↓

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 

 

最近の僕のツイート↓

 

noteで時事ネタ解説も始めました↓

note.mu

 

僕の「やりたいこと」の話をします。

 

こんにちは、藤本(@Kentaro_Fujimo)と申します。

 

#Metoo ムーブメントで、斜め上からの炎上攻撃を受けてしまっている、はあちゅうさん(@ha_chu)。

 

「自身が出版した本のキャンペーンではないか」という邪推もありますが、ただまぁこれは実際に今回の騒動後に彼女の本を購入した人もいます。

 

なぜそんなことが分かるのか?

 

僕自身が、はあちゅうさんの本を買ったからです。

 

その本がコチラ↓

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

 

 

 

 

「えっ、最新刊『「自分」を仕事にする生き方』じゃないの!?」

 

と思ったそこのあなた、まだまだ甘いです。

 

今だからこそ、あえて『半径5メートルの野望』を読むのです。

 

はあちゅうさんを一言で表すなら

 

僕がはあちゅうさんの本を読むのは、本作で2冊目です。1冊目は、『言葉を使いこなして人生を変える』を読みました。そのときの感想はコチラ↓ 

fujimoto.hatenadiary.jp

 

この2冊を通しての、はあちゅうさんの印象を一言で表すなら「叩き上げ」です。

 

無名の何者でもなかったところから、ブログをフックとして有名人へと駆け上がっていった。

 

苦しみ悶ながら進んだプロセスだからこそ、彼女の言葉は等身大で、かつ説得力があります。

 

今作『半径5メートルの野望』について

 

改めて、今回読んだ本のタイトルは『半径5メートルの野望』。

 

視線を高く上げすぎて足をすくめてしまうのではなく、まずは身の回りにある興味やチャンスに手を出していくことで、他の人の「半径5m」と交わり、少しずつ自分の世界を広げ、そして夢を叶えよう!という意味が込められている(という僕の解釈です)。

 

そして今回、その「夢を叶える」ことに関して、本著のなかで僕が特に響いたのは、

 

夢を叶える時は必ず、「目的」をはっきりさせてから「手段」を考えるというクセをつけましょう。

 

という言葉です。

 

本中の小見出しの一つにもなっていたんですが、「なりたい職業」と「夢」は別物です。

 

つまり今から速攻で、小学校の卒業アルバムから「将来なりたいもの」欄は削除すべきということです。

 

そして、「自分がやりたいこと」欄に改定すべきです。本来、まずこっちが定まってから、それを実行するための手段としての「なりたい職業」です。

 

でも逆に、小学生の時点で「なりたい職業」ではなく「自分がやりたいこと」を問われていたら、僕はなんて答えていたのだろうとも思います。

 

実際、「自分がやりたいこと」って、未だにそれの見つけ方が20~30代向けのイベントなどでもちょくちょく質問されているように、見つける(言語化する)のが簡単ではない"問い"です。

 

僕は大学3年生になって本格的に卒業後のキャリアを意識しだすにつれ、次第に本気で「自分がやりたいこと」について考えるようになりました。

 

この1年くらいのなかで、「自分がやりたいこと」自体はそれほど変わってないと思いますが、それを定義する言葉自体は何度か変わってきたので、今回のエントリではその変遷を振り返っておこうと思います。

 

ちなみに、はあちゅうさんの目標は「ネット時代の新しい作家の形を作る」ことです。

 

ラジオで「自分がやりたいこと」を話している際にふと湧いてきた言葉らしいですが、やはり岐路に立ったときや自分のをプレゼンしたりするときに、「自分がやりたいこと」が簡潔な言葉で定義されているというのは、非常に重要です。

 

僕の「自分がやりたいこと」

 

僕が半年ほど前、まず最初に思いついたキャッチコピーは、「人間拡声器」でした。

 

「世の中にある素晴らしい(けどあまり知られていない)人やプロダクトを、自分が伝えていくんだ!」という気概でした。

 

小さい頃から僕は、良くも悪くも"八方美人"でした。何か特定のきっかけがあったわけではないですが、今でも覚えているのは小学校3~4年生ごろにクラスで行われた、ドッジボールでの出来事です。

 

僕は当時小学2年生からソフトボールを習っていて、クラスの中ではそれなりに球が投げられる方でした。

 

目立ちたかった僕は、バンバン球を捕ってビュンビュン球を投げ、キャーキャーはしゃいでいたのですが、そのドッジボールが終わった時、笑っていたのは僕と、同じように出しゃばっていた数人の男子"だけ"でした。

 

僕はその光景を悲しく、そしてとてもつらく感じました。

 

そんなこともあったりして、僕は小学生のときから「どうすれば周りの人に笑ってもらえるか」「どうすれば友達に嫌われないで済むか」と、"人の心"についてばかり考えていました。

 

その流れを受け継いで、いま大学では心理学を専攻しているわけですが。

 

ドッジボール事件などもあり、小学生以来、他人にばかり意識を向けてきた"八方美人"だった僕ですが、"八方美人"については、ここ1~2年は良い意味で徐々に他人のことは考えなくなりました。

 

(その際に影響を受けた本の一つは『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

ただ、依然として"人の心"自体に興味はあったので、それに関連した「自分がやりたいこと」を、ここ1年くらい考えるなかで、「メディア」「広告」といった業界にたどり着きました。

 

厳密に言うと、"人の心"と"商売"は切っても切り離せないものなので、業界は特定できるものでありません。

 

ただ、僕自身が強烈に世間に伝えたい特定のメッセージや、特定のプロダクトが当時は思い浮かばなかったので、それだったら自分が共感した他人のメッセージやプロダクトを、一緒に手伝って伝えようと考えました。

 

そんな考えもあり、「人間拡声器」という言葉を思いつきました。

 

ただ、ずっと考えていくなかで、「人間拡声器」は「自分のやりたいこと」を完全には包括できていないんじゃないか?と思うようになりました。

 

というのも、僕自身に伝えたい"特定"のメッセージはないまでも、伝えたいメッセージの"方向性"みたいなものはあったからです。

 

原発をどうにかこうにか!とか、憲法をどうにかこうにか!みたいな"特定"のメッセージを発したいわけではないですが、例えば今書いているこの「藤本の日記」は、「世の中の人に多くの示唆を提供したい!」というメッセージの"方向性"を持って始めたものでした。

 

だから、「人間拡声器」だと僕発のメッセージを包括していない気がしました。

 

次に思いついた「自分がやりたいこと」の定義

 

そこで次は2~3ヶ月ほど前、メッセージの"出どころ"を問わないのであれば、"伝え方""伝える内容"に「自分がやりたいこと」の本質が隠れているのではないかと考えました。

 

考えた結果、思いついたキャッチコピーは、「"funny"と"interesting"、両方の面白いを届けたい!」でした。

 

誰のメッセージであれ、小学校時代からこれまで、僕がなんらかのメッセージを発するときは「どうせ伝えるなら面白く」精神がありました。

 

そして、最近ようやく「面白い」にも"funny"と"interesting"の2種類あるんだ!という中学2年くらいで習いそうなことにようやく気づき、この「面白い」という言葉は「自分がやりたいこと」をうまく言い得ているんじゃないかと思いました。

 

ということで、「"funny"と"interesting"、両方の面白いを届けたい」を高らかに掲げていたのですが、ここ2~3週間ほど、まだ包括し切れていないなと感じ始めました。

 

というのも、最近noteにジョインした深津さん(@fladdict)がピックアップしたデザイン記事(UI/UX)を、すこぶるワクワクしながら読んでいる自分に気づきました。

 

また、僕が心理学を専攻して勉強するなかで、特に「対人関係」や「集団心理」、分野でいうと「行動経済学」や「認知心理学」などに興味を持った僕は、現在、心理学の中でも特にそれらを全体として取り扱っている社会心理学のゼミに所属しています。

 

「面白い」だけじゃ、「自分がやりたいこと」を言い表せていない、まだまだ奥底に真理のようなものが隠れている、そんな気がしました。

 

現時点でベストに言い表している「自分がやりたいこと」の定義

 

考えた末、現時点での「自分がやりたいこと」に一番しっくりくるのは、「人の心をハックしたい」という言葉です。

 

人の心をハックした結果の一つとして、笑ってもらう、納得してもらう、感動してもらう、行動を起こしてもらう、快適に過ごしてもらう etc.

 

先程の「面白いを届けたい」というのも、どうせハックするなら笑ってもらった方がいいよねという思いから、出てきた言葉でした。

 

でも僕は、味わうなら面白さだけじゃなく、感動も快適さも、色んなステキな思いをしてもらいたい。

 

「人の心をハックしたい」なら、こういう僕の考えを簡潔に反映していると思います。

 

もちろん、これまでも二転三転してきたので、これからも変わるかもしれませんが、今の所は上記の言葉がベストです。

 

「自分がやりたいこと」を公言することのメリット

 

こうして「自分がやりたいこと」を事細かに話すことに、恥ずかしさを感じないわけではありません。しかも僕の場合、それが世界平和や貧困の根絶といった、大志あるものでもありません。

 

ただ、本中ではあちゅうさんが言っていた「夢は自分本位でもいい」「夢は公言した方がいい」という言葉で、今回こうして文字に残しておくことを決めました。

 

僕の「自分がやりたいこと=夢」は、自分本位です。自分のしたことで友達が笑っているときに一番嬉しいのは、僕自身です。僕の書いた文章が、世界平和につながるかも分かりません。

 

でも自分本位の方が案外エネルギーが持続するかもしれないし、夢を遠くに置きすぎて足がすくんでしまうくらいなら、身の回りで叶えられる夢から始めたほうがいい。

 

夢を公言するすることによって、応援者が現れたりするかもしれないし、自分にプレッシャーをかけたりもできる。

 

そんなはあちゅうさんの言葉が、僕に刺さりました。

 

「自分がやりたいこと」の経緯に感動的なエピソードはいらない

 

そして最後にもう一つ、はあちゅうさんの言葉によって自分の心が軽くなった例を紹介します。

 

こうして「自分がやりたいこと」を話すと、次に聞かれるのは「その"やりたいこと"は、どこから芽生えてきたの?」という質問です。

 

この質問に対して、いいエピソードがない僕は困っていました。非常に贅沢なんですが、コンプレックスがないことがコンプレックスみたいな状態に陥っていました。

 

急に死の恐怖に駆られたわけでもないし、生死の間を行き来するような大病にかかったこともありません。

 

単純に自分のしたことで、誰かが笑ってくれたり、感動してくれたり、感心してくれることが嬉しいだけです。それじゃダメなのかな?と疑問だったのですが、本中にあったはあちゅうさんの言葉で、それでもいいんだ!という自信に変わりました。

 

私は、理由がある好きより理由がない好きのほうが強いように思うので、

「かっこいい理由なんてないですけど 、この道を選ぼうと思いました 」

と言い切れる人のほうが、信頼できます。

「こっちが、運命だと思いました」でいいじゃないでしょうか。

 (改行は僕の手によるものです)

 

残された問題はもう、あとはどれだけ僕がやれるかだけ。もっともっと、

 

「人の心をハックしたい」です。

 

 

 

 いっぱい刺さる言葉、詰まってました↓

半径5メートルの野望 完全版 (講談社文庫)

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