藤本の日記(@Kentaro_Fujimo)

大学生の男です

メルカリの商品販売新機能、「メルカリチャンネル」を見てみた。

 

こんにちは、藤本と申します。

 

ライブ配信での商品販売機能「メルカリチャンネル」開始 〜開始を記念して多数のタレント・インフルエンサーライブ配信
https://www.mercari.com/jp/info/20170706_mercarichannel/

 

最初にこの記事を読んだ時、僕の中でイマイチ具体的な絵が想像しにくかった。というのも、「EC」「その場で購入」というワードからは、Instagramが真っ先に浮かんだからだ。今、Instagramがどんどん直感的にいいと思った服をポチれるような仕組みを整えていっているけど、記事によると「メルカリチャンネル」の持ち時間は1人20分もある。メルカリチャンネルの方でも、てっきり企業の方からお願いされた服などを紹介するサービスだと思っていたから、20分も一商品について話すことなんてあるのかと勘ぐっていた。ただ、実際に見てみて漸く仕組みを理解できた。

 

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タブに一つに「メルカリチャンネル」が埋め込まれている。

 

見る手順は簡単。予めメルカリ側からタイムスケジュールが発表されており、その時間になったらメルカリアプリのタブにある「メルカリチャンネル」から、LIVEを視聴できるようになっている。

 

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左端の人の顔がはみ出してしまっている。

 

画面は、今流行りの縦画面。同じく最近はじまったNewsPicksの「LivePicks」も縦画面だったけど、こちらは上半分だけ。どうせやるなら、僕はメルカリチャンネルの方の、画面全体の縦画面の方が見やすい感じがした。

 

参考記事

 

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途中、画面が真っ白になるアクシデントも。

 

ただ、こうなると縦横のバランス的に画面に映るのは1人がベストだなと感じた。ギリ2人。3人は多すぎる。僕が見たときは丁度ジャングルポケットが3人でやっていたけど、画面から左端の人がはみ出ていた。将来的に一般人がやる時には、視聴者と1対1で対話するようなイメージでやるのだろうか。

 

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いつもどおりの商品説明欄。

 

商品を売る際、出品者が持ってきた服の思い入れを簡単に話し、購入フェーズへと移行する。通常画面から左に指をスライドすれば、購入画面に遷移できる。タイムカウント方式で0になった瞬間に購入できるようになるのだが、3人の商品とも速攻で売り切れた。多分、メルカリの場合は、購入者が重視しているのは「商品」ではなく出品している「人」であるんだろう。ここらあたりの設計がInstagramとは違う。逆にInstagramは、どちらかと言えば「人」よりも実際の「商品」自体に重きを置いている。Instagramよりは、SHOWROOMの方にイメージは近い。どんどん相互コミュニケーションの場が出てきてるなあと感じた。

 

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3商品とも、速攻で「SOLD」。

 

これからの時代、かわいい人とかっこいい人は無条件に有利なんじゃなかろうか。

 

 

 

 

 

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松本人志の「ドキュメンタル2」観たけど、どうやら「ガキ使化」が進行している模様。

 

こんにちは、藤本(@Kentaro_Fujimo)と申します。

 

 

まず、キャストに関してはだいぶ粒ぞろいになったなという印象。第1回と比較すれば一目瞭然だけど、かなりキャスティングの費用は上がっているはず。前回はそんなに人気がなくても、芸風や全体のバランスなどを考慮して選出された感じだったけど、今回はなりふり構わず兎に角、力技でTVによく出ている面白い人を呼んだんじゃなかろうか。僕的には、こっちの方がテンションが上がる。個の能力が高いので、どんどん参加者が退場していく後半戦も、十分見応えがあるから。

 

第1回参加者

 

 

第2回参加者

 


今回は、前回から主なルール変更が2つあった。僕は、このルールからタイトルの通り「ガキ使化しているな」ということを感じとったのだけど。

 

1つ目は、「オレンジカード」の導入。前回ではイエロー2枚でレッドとなり、退場になった。今回はそこにイエローより弱い「オレンジ」が入った。色合い的にはイエローとレッドの間だけど、実際の役割は0.5枚分的な感じ。例えばイエロー1枚の時に、オレンジを喰らっても、まだ退場しなくていいということ。

 

*2017年9月4日修正 「0.5枚」的な役割ではなく、「1.5枚目」としての役割でした。つまり、オレンジは色合いとしても合ってました。

 

つまり今回、ほとんどの人がオレンジを挟んでいたので実質的に2回まで笑っていいということになった。前回は1回だけだった。ただ、退場ペースは前回とそんなに変わらなかった印象なので、単純に芸人全体がゲーム中に笑う回数が増えたということ。ここら辺りがまず、「ガキ使化」の要因。

 

2つ目は、「ポイント制」の導入。最終的に複数人残った場合に、ポイントの高い人が優勝となる。ポイントは、他の人を笑わせた人場合に獲得できる。松本人志はこのルール導入の経緯として、前回最終的に1人まで絞りきれず、優勝者を出せなかったこと。あと、どんどん仕掛けていった人に有利になるような仕組みを作りたいということだった。ただ、これを聞いて僕は「?」と思った。方向性が逆じゃないかと。僕はてっきり、前回は最終的に1人まで絞りきれなかったから、1人に絞りやすいような施策を実行するのかと思っていた。しかし、方向性としては明らかに「芸人をステージに残す」方に向かっている。笑える回数は増えたし、ポイント制を導入したということは、あくまでも複数人が残ることを前提としてるということ。そっちかい!と思わず心の中で突っ込んでしまった。

 

松本人志は第1回の時に「本当の笑いとは何なのかを、これを通して追求したい」みたいなことを言ってたけど、番組の方向性としては恐らく「観客ファースト」として、魅せるものにシフトしていってるなという印象。まあ、観客の僕としてはそっちの方がありがたいけど。

 

あと、キャスティングに関してはもう少しフジモン宮川大輔みたいな感じの「肩の力が抜けた、丸腰で戦える中堅芸人」みたいな人がもう1人か2人いてもいいかなと思った。今回だとノブコブの吉村やジャンポケの斉藤みたいな勢い重視のイケイケキャラみたいな人は、後悔したくない、なんとか爪痕を残したいという思いが強すぎて、序盤からフルアクセルで突っ走り過ぎる。もうそうなると、半分すぎたくらいでも生存していた場合、持ちネタが尽きて、とりあえず服脱いで下ネタしかすることがなくなる。

 

それよりかは、フジモン宮川大輔みたいな、どんな材料でもある程度調理できるから前半からそんなに飛ばさなくてもいいやみたいな人がもう少しいてくれたら、後半戦ももう少しセンスのある笑いが楽しめる。

 

あと、これは前回のレビューでも言ったことだけど、例え面白いことをしても「ガキ使」と違って皆が我慢してしまうので、スベったみたいな空気になっしまう。例え、それが本当は面白かったとしても。だから、現場に観客席を設けて、代わりに観客にだけは笑わせたらどうだろうかとも思った。ただ、そうするとあの現場も何とも言えぬ緊張感が崩れてしまう可能性もあるので、そこは難しいところ。あの独特な空気から生まれる笑いもあると思うから。

 

まあ、これからシーズン3.4と重ねていくにつれて「観客ファースト」の傾向がより一層強まり、「ガキ使化」していくようだと、「ガキ使の笑わせる側と笑かされる側がごちゃ混ぜになったバージョン」みたいな感じになっていくんじゃないだろうか。それもそれで面白そうだけど、何か差別要素を出してくれないと、わざわざこの無法地帯で年末のガキ使と別にやる意味なくね?とも思ってしまう今日この頃。

 

 

 

第1回レビュー

fujimoto.hatenadiary.jp

 

第3回レビュー

fujimoto.hatenadiary.jp

 

新しいメディアの教科書、佐々木俊尚先生の「授業」から学んだ3つのこと。

  

こんちには、藤本と申します。

 

新しいメディアの教科書 (Kindle Single)

新しいメディアの教科書 (Kindle Single)

 

 

最初にこの本の売り方を見た時、書籍のタイトルは「新しいメディアの教科書」だけど、売り方自体は「新しい本の売り方」を体現しているなと思った。

 

最近、noteやメルマガで文章に少額課金するという文化が浸透してきたけれど、「本」という形式にも少額課金するやり方があるんだと、ふと気付かされた。というか今まで、僕が「本は200ページくらいあって、値段は1500円前後くらい」みたいな固定概念にとらわれすぎていた。本著は分量的には通常の書籍の半分くらい、値段は199円という破格の安さ。この分量と値段なら、たとえ「本」という形式をとっていたとしても、note1記事分やメルマガ1週分と同じだな考えると一気に肩肘の力が抜けて、気軽に購入できる。

 

肝心の内容については、「新しいメディアの教科書」というより「バズフィードの教科書」と言っても過言ではないくらい、バズフィードについて紙幅が費やされていた。

 

僕にとって、これは大歓迎だった。バズフィードについては、バイラルメディアや読者データを分析するシステムについて、その名前や存在自体は知っていたものの、その背後にある理念や詳細なシステムについては未知な部分が多かった。新興メディアの中で、バズフィードは僕が特に好きなメディアの一つなので、本著を通して理解が深まって良かった。その中で、今回特に印象に残った佐々木俊尚さんの「授業内容」について、3つに分けて整理する。

 

①「パーソナライズ」ではなく「コミュ二タイズ」。


ネットの一つの特徴として、「パーソナライズ」がある。ただ、これは諸刃の剣で「タコツボ化」という弊害も発生する。(タコツボ化自体が諸刃の剣で、それにも良い面と悪い面があるけど、とりあえず今回は弊害ということで。)今後、コンピュータが賢くなっていくにつれて、益々パーソナライズの進行が予想される中で、バズフィードはパーソナライズではなく、「どのようなコンテンツを読者がみんなと共有したいと考えているか」ということにフォーカスする。つまり、コミュニタイズ。確か、バズフィードの理念の一つに「皆のコミュニケーションのタネになる」みたいなのがあったと思う。これについて、本著からわかりやすい解説。

 

パーソナライズの対象がひとりの個人ではなく、その個人の向こう側にいる仲間や友人、家族といったひとかたまりの集団を対象にすれば、お勧めされるコンテンツの幅は格段に広がる。さらにこの集団は固定的なものではなく、さまざまな場面によってその都度変わっていく。

 

パーソナライズに対する対処法が他のサービスに関してはなかなか見つからない中で、取り敢えず「情報収集」に関しては、この「コミュニタイズ」が一つの解決策になるんではなかろうか。

 

②ネイティヴ広告の秘めるポテンシャル。

 

バズフィードは、自社の記事やサイトに広告を掲載していない。また、有料記事や定額課金モデルをやっているわけでもない。では、どうやってマネタイズしているかというと、ネイティヴ広告による企業からの記事依頼料だ。

 

最近は「タイトルにPR入れるか問題」などで何かと話題の「ネイティヴ広告」。逆に言えば、これからのメディアがマネタイズできるか否かのカギを握るであろうからこそ、これだけ議論されているとも言える。

 

今の時代、従来の広告は嫌われすぎている。ディスプレイ広告にバナー広告、あとはなんて言うのか知らんけど、スクロールに合わせて動くやつとか。ただでさえ小さいスマホの画面で、そんなに興味ない情報にあれだけ自己主張されたら、そりゃ嫌いにもなる。

 

そんな中、ネイティヴ広告は「宣伝したい企業」「メディア」「読者」が三方よしになる可能性を秘める逸材だ。企業は自然な形で自社のサービスやプロダクト、はたまたその企業の存在時代を認知させることができる。メディアは、従来の広告収入よりも、大きな額の収入が入ってくる。そして読者は、面白い記事を無料で読んで楽しむことができる。今は、「読者」がまだちょっとヨシになってないけど。

 

バズフィードは、ここをテクノロジーの力も駆使しながら本当の三方よしを実現しようとしている。具体的には、バズフィードは独自に開発している「パウンド(Pound)」という技術を採用している。これについて、本著からわかりやすい解説。

 

パウンドの技術は、記事のURLを活用している。バズフィードの発表した文章で言えば、「共有者のURLに、変動型の匿名ハッシュをUTMコードの形式で埋め込んでそれを追跡している。 

 

もう少しわかりやすく説明すると、ランダムに特定の数値をつくって、その数値を記事を見てくれた読者のURLに埋め込んでおく。このユーザーがそれをフェイスブックでシェアすると、数値も一緒にフェイスブックへと旅をしていく。その記事がメールでだれかのもとへ転送されれば、やっぱり数値も一緒に移動していく。この数値がどう旅をしていくのかを追跡していくことで、記事の拡散の全容が判明するということなのである。

 

このパウンドの技術によって、どのSNSにいつ配信すれば効果的に拡散されるのか、またコンテンツ自体もテキスト記事や動画、クイズ形式など、どのフォーマットが適しているのかなどに臨機応変に対応していくことができる。こうして、バズフィードはメディアの新たなマネタイズ手法として、まだまだ発展途上なネイティヴ広告の可能性を見出そうとしている。

 

③「水平分離」ではなく「垂直統合」。

 

インターネットの本質は水平分離だ、と言われている。物心ついた時から比較的ネットが身近にあった僕にとって、肌感覚での実感はしにくいけど、要はこれまで一社内で完結していたプロセスを、様々な企業が分担して請け負うようになったことを言うらしい。そして、メディアにもその波は来た。ヤフーニュースなどのプラットフォームに、それぞれのメディアが作成した記事が同一に配信される。「記事の作成」と「流通」が分離されるようになったのだ。

 

しかし、バズフィードはここで新たな「垂直統合」を実現しようとしている。先ほど述べた「パウンド」を駆使して、コンテンツの制作だけでなく流通、つまり「どのように読者まで届けるか」までを意識している。今の巨大SNSプラットフォーム、FacebookTwitter、スナップチャットにインスタグラムの、アルゴリズム変更などに「翻弄」されのではなく、「利用」していく。この様子を、最後に佐々木俊尚さんはこのようにまとめている。

 

一九九五年からの過去二十年のインタ ーネットは、水平分離に向かって進んできた。今後の二十年はコンテンツを制作するメディア企業による新しい垂直統合も広がっていき、水平化と垂直化が同時に進む方向へとむかうだろう。メディアは垂直に文化を統合していき、プラットフォームは水平に基盤を提供していく。その二つの方向は縦横に交わりながら、二十世紀にはなかったまったく新しいメディア空間を創造していくのだ。

 

日本語リソースの限界

 

以上の3つが、佐々木俊尚さんの教科書から得た「学び」。最期に「注釈」として、本著全体を通して僕が強く感じたことを一つ。

 

それは「日本語リソースの限界」。「英語リソースの重要性」と換言してもいい。今回、佐々木俊尚さんは随所でバズフィードCEOのコメントを引用していた。本著最後に記されていた引用記事なども、ほとんどが英語リソースだった。

 

今は翻訳技術なども発達しているから、日本語だけでもそれなりに世界の情報を入手することはできる。ただ、大勢には需要がなさそうな細かい情報などは翻訳されなかったり、災害やテロなどの際の緊急を要する場面では、翻訳までの数時間のタイムラグが命取りになったりもする。また、「翻訳」というプロセスを一旦はさむことによって、本来意図した情報からねじ曲げられて伝達される場合もある。やはり、生の情報源を自分で扱えるなら、それに越したことはない。

 

特に、IT情報やメディアの動きなどはスピードが早く、かつ日本語とは比にならない量の情報が眠っている。そのため、最近は僕もできる限り毎日英語記事を1つ読んで、Twitterにてコメントするようにしている。これから先、日本市場は先細りで小さくなるので、世界のマーケットで戦っていくためにも、どんどん英語記事で生の情報をキャッチしていかなければならない。

 

 

 

ということで、「新しいメディアの教科書」を読み終えた今、その背景や技術を頭に入れだ上で、改めてネイティヴ広告とバズフィードに注目していこうと思う。

 

 

 

 

 

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ヨッピーさんの「タイトルにPR入れる入れない問題とか色々」について一読者として色々。

 

こんちには、藤本と申します。

 

 

ヨッピーさんがまた火を吹いた。一旦熱りが冷めたと思っていたら、また先日それに関連するイベントを開いたらしく、そこで再び「PR熱」が再燃したのだろうか。

 

記事広告のタイトルに【PR】表記するかしないか論争:ネットウォッチャー炎上日記
http://japanese.engadget.com/2017/07/11/pr/

 

Fb上で去年に行われた件の方は知らなかったのだけど、今回再び勃発した契機は、おそらくヨッピーさんのバズフィードのインタビュー記事あたりだと思う。

 

当時、僕は記事タイトルに【PR】の4文字を入れるかどうかがそんな問題になっていること自体知らなかったし、知ったとしても全く関心が持てなかったので、スルーしていた。

 

ところが、2~3日経っても全くツイッター上で議論が収まらない様相を呈してきたので、これは一ヨッピー記事の読者として、一旦腰を据えて考えることにした。

 

考えた結果、出た結論は「やはりどうでもいい」だった。なぜなら、本当にどうでもいいから。これ、100年後の人とかが今の僕たちを見たらって想像すると分かりやすいけど、間違いなく「タイトルに【PR】の4文字が入ってるかどうかとか、全くもってどうでもいいわ」って言われる。人類の歴史の中で見たら、本当にどうでもいい問題。

 

あと他に僕が関心を持てなかった理由として、ツイッターたらればさんが言っていて気付かされたのだけど、ヨッピーさんはライター業界の中でも既にスーパースター的な存在になっていて、記事じゃなくてライター自身に読者がついてる。だから、PRだろうが通常の記事だろうか、「ヨッピーさんが」執筆した記事なら毎回読むっていう読者が一定数存在する、っていうことを言っていた。なるほどなと思った。僕もその一定数を形成する一人だ。だから、PRが入ってるかどうかとか、どうでもよかった。

 

というか、僕はヨッピーさん以外の時も、記事を読むか否かを決めるのは結構属人的な側面が強い。「何を」書いてるかじゃなくて、「誰か」書いてるかを重視する。個人のライターでなくても、媒体も読む前に気にする。結局、得体のしれないメディアの釣りタイトルとかにガッカリすることとかも少ないから、この問題に関心を持てなかった。

 

でも、そこからもう一歩踏み込んで、「そうか、僕がPR記事でガッカリして困ることがないから、メディアやライターの人たちは、逆に困ってるのか」と気付いた。釣り記事につられることがない人が多いほど、メディアやライターがPVを稼げてないってことだ。

 

じゃあ結局、【PR】の4文字についてどうすればいいのかっていう処遇については、結論から言えば「入れればいい」と思う。PVが減るのは嫌だからと入れなくてPV稼いで、それで読者がそのメディアなりライターなりに良いイメージを持つのかと言えば、答えは言わずもがな。それなら評価観点をPV以外に色々と用意すればいいんだとかそういう話になるけど、そうなるとまた話が脱線してしまうし、僕もそこら辺の話はよくわかってないから、深入りはしないけど。

 

じゃあPVが減っちゃうじゃないかっていう話に関して、月並みな対処法としてはやはり「コツコツと面白い記事を書いて、サポンサードコンテンツの時もポチッとしてもらえるように」するしかないと思う。

 

僕自身は、結構スポンサードコンテンツが好きだ。企業から潤沢な予算が出ているのか、企画の規模が大きいイメージがある。面白いスポンサードコンテンツしか読んでないからかもしれないけど。それに、利益を出しにくいと言われているネットメディアが、しっかりとお金を回していくための手段として、今のところスポンサードコンテンツはマストだと思う。「ちゃんとした」メディアがちゃんと生き残るためにも、メディアは【PR】と入れて、面白い記事を書いて、読者は楽しむという好循環が生まれて欲しい。

 

 

 

 

 

Twitterもやってます!よければフォロー、お願いします。

これからツイッターでは"As Many As Possible"で、色んな人をフォローしていく。

 

こんちには、藤本と申します。

 

 

SNSによって、人ってのは結局、「見たいものしか見ない」という生き物なんだという事実が、より鮮明になった。今回の僕も、悩んで悩んで悩みまくった挙句に決めた方向性を、後押ししてくれるようなブログに出会ってしまった。だから思わず「ウンウンなるほど、だから自分のやり方も合ってるよな」とうなずきながら、自分に都合の良い情報だけすくい取りながら読み進めていった。

 

ブログのタイトルからも内容はなんとなく分かると思うけど、僕はツイッターを始めて以来、常に考え続けてきたことがあった。

 

「フォローする人数はどれくらいが適切なのだろうか」

 

フォローしてはリムり、フォローしてはリムった。タイムラインを追い切れなくなることや、どうでもいいつぶやきが混入するのに、耐え切れなかった。だから、気になる人がいてプロフィール欄に行っても、しょうもないつぶやきが多い人は、例え10ツイートに1つある有益な情報を捨ててでも、タイムラインの「濃度」を重視して、フォローを見送ってきた。

 

だけど、ここ1ヶ月ほどで方針をガラリと変えた。それまでのアベレージは大体60~70フォローくらいだったのが、一気に増やしまくり、今は182まで来ている。その心境の変化とは何か?それはやはり、「100未満のフォローでは入手できる情報の幅に限界がある」と漸く気付いたからだ。ノイズはスルーすればいい。ある程度の情報にはリーチできるようになった今、僕には情報の「質」よりも「量」が必要だった。以下、冒頭ブログより引用。

 

6割程度の情報を手に入れるには、専門のサイトの情報源を読んでいれば十分でしょう。でも、8割の情報を手に入れるには、自分で情報を探すためにそれなりのノイズを受け入れて取捨選択をする作業が発生すると思います。これが9割レベルともなったら、目にする情報の大半はノイズとなるでしょう。実際、私は毎日20個程度のニュースを紹介しておりましたが、目にするニュースは毎日1000個ほど。

 

僕は今、広告やメディアに興味があるのだけど、その界隈の人は、すごい数の人をフォローしている。例えば「メディア野郎」ことLINEの田端さんも2000人を超えているし、朝のニュースキュレーションで有名な佐々木俊尚さんにいたっては、2万人超えを果たしている。一体どうやってタイムラインを追っているのだろうか。

 

最近は、一通りフォローに迷っていた人はフォローして、人数が漸増気味なので、少しフォローするか否かの閾値を下げていく。ノイズも何もかも含めて、楽しみながら情報収集。最後に再び上記ブログから引用。僕が一番いいなと思った言葉。

 

そもそも情報の大半はノイズなので、その中から有意義なものを見つけることができた時に喜ぶようなスタンスでいた方が情報収集は楽しいと思います。

 

 

 

 

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映画「キンプリ」の応援上映に行ったつもりが、間違えて通常上映に行ってしまった話。

 

こんにちは、藤本と申します。

 

 

先日、この記事を読んでキンプリ、というか、キンプリの映画上映スタイルに、ものすごく興味が沸いた。

 

記事中にあった「共創とかインタラクティブとかエンゲージメントとか、そういう言葉で表現するレベルではない。」という言葉にすごい惹かれて、これは行ってみなければと思った。

 

というのも、昨今は「体験型エンタテイメント」なるものがすごく流行っているらしく、「その場限り」という要素は、エンタメに限らずこれからの消費においてマストだという言説を、毎日のように聞く。

 

ただ、耳にはそういう情報が入ってくるものの、実際にそういう現場には出かけられていなかった。音楽コンサートなんかが一番ベタなんだろうけど、特に好きなアーティストがいるわけでもない。最近の流行りで言えば、人狼ミュージカルやサバゲーなんかも当てはまるだろうけど、日程や人数、会場や金額などの様々なハードルがあってなかなか一歩踏み出せかった。

 

「今の時代のエンタメを感じたい!」という思いがありつつも、なかなか行動に移せないでいたモヤモヤを抱えていた矢先、飛び込んできたのが冒頭の高木新平さんの記事だった。現代のエンタメとして体験する一発目が、「共創とかインタラクティブとかエンゲージメントとか、そういう言葉で表現するレベルではない。」のは、少し刺激が強すぎるかなとも、一瞬思った。しかし、「これは今、僕の中でエンタメ消費のリープフロッグ現象が起きているんだ!」という訳のわからない思考が芽生えて、やはり行かねばと思った。というか、これに行かなかったらどんどん自分の足に根っこが生えてくるような気がして、絶対に行かねばならないと思った。映画なら、毎日やってるし、最悪1人でも行けるし、近くにも会場があるし、2000円もかからずにチケットが入手できる。僕の言い訳4カ条を全て取り払ってくれる映画は、素晴らしいエンタメだ。

 

ということで、早速アニメ好きな友人に連絡を取って、一緒に行かないかと誘ってみた。別に一人で行っても良かったのだけど、応援上映独自の暗黙のルールやマナーなどがあったら対応できないなと思い、アドバイザーが欲しかった。友人は、実際に見たことはないものの、キンプリの噂自体は聞いていたらしく、すぐに2人でのキンプリ映画出陣が決定した。

 

そして迎えた当日、映画館のある最寄り駅まで電車で30分ほどあるので、さすがにノー勉で向かうのは無防備すぎるなと思い、その車中でキンプリについて予習していた。すると、衝撃の事実に気づいてしまった。

 

「通常上映と応援上映?」

 

不覚だった。「応援」上映と、上映の前にわざわざ「応援」と形容する形態があるならば、「通常」の上映形態があることも、検討範囲にせねばならなかった。どうして気づかなかったんだろう。

 

さらに調べてみると、基本的にやっているのは「通常上映」の方で(だから通常というのだけど)、「応援上映」の方は週末などにしかやっていないようだった。「やってしまったー」と悔恨の情にかられると同時に、誘った友人にも申し訳ない思いも募って、上映開始1時間ほど前の、僕の精神コンディションは、絶不調に陥っていた。

 

まあしかし、やってしまったものは仕方ない。今回はアップというか勉強というか、下見みたいな位置付けにして、キンプリのことについてもっと知ってから応援上映に臨めると、気持ちを切り替えた。

 

残りの時間で映画公式サイトのイントロとストーリーと、キャラクター紹介に目を通した。しかし僕の予備知識がなさ過ぎたせいで、あまり頭に入ってこなかった。「一条シン」という子が実質的な主人公であることと、右利きの人が多いという情報だけが、唯一僕の長期記憶に残留した。

 

そうして、実際に映画を見てみた。感想は、一言では表現しきれない。色々と感じるところや思うところはあったけど、それを言葉にするのは難しい。というか、ヘタに言うと本当のファンの方々に怒られそうだから、僕も高木新平さんと同じく、映画の内容について論評することは避けておく。

 

でも、映画を見ていて一つ強くあった感情は「悔しさ」だ。ああ、どうして僕は通常上映のチケットを購入してしまったのだろう、と。今のこのシーンが応援上映だったら、恐らく会場の空気は最高潮にヒートアップするだろうなというシーンに、何回も出くわした。多分、プリズムショーのバトルシーンなどは興奮しすぎて軽く2~3人は毎回倒れているのではないだろうか。僕もその雰囲気を味わいたい。通常上映を鑑賞して、改めて応援上映への思いを募らせた。ストーリーやキャラクターも少しは勉強できた。そういう意味では、通常上映も悪くなかったのかもしれない。というか、そう自分に言い聞かせている。

 

というわけで、まだチケットは取ってないけど、チケットがまだ残ってたら今週末の15日にある応援上映に行くつもり。ただ、今回付き添ってくれた友人は当日はバイトがあるようで来れない。だから、とりあえずネットで色々と調べて会場へは一人で行って、その場の様子を見ながら僕も応援しようと思っている。

 

 

 

 

 

兵庫県の神戸か三ノ宮の映画館に行く予定です。当日行く予定のある方で、かつこの僕のブログを読んでくれたという、奇跡の星の王子様みたいな人がいたら、DMくれたら嬉しいです。色々と御指南ください。

「インターネット的:糸井重里」

 

こんにちは、藤本と申します。

 

インターネット的 PHP文庫

インターネット的 PHP文庫

 

 

この本、実は2001年に一度出版されたらしいんだけど、今になって話題沸騰らしく、若干の加筆を経て、2014年に再出版された。「10年以上も前にこんなことを書いていたなんて!まさに予言の書だ!」という盛り上がり方だったらしい。未来を書いた本じゃなくて、今を確認するための本だったら別に読んでも新しい知見を得られないから、別に読んでも意味ないんじゃないかとも思った。んだけど、最近遅ればせながら糸井さんの文章に興味が沸いてきたのと、「インターネット的」なものについての、確認の書なら確認の書で、それもインターネットの歴史に無知な僕の良い基礎固めになるなと思って、アマゾンボタンをポチった。

 

結論:めちゃくちゃいい本だった。

 

目から鱗だった。「ああなるほだな!」「ああ確かにな!」っていう話が盛り沢山だった。まえがきに「10年以上前に書かれたことはあまり意識せずに読んでください」って書いてあったから、あまり意識せずに読もうとしたけど、時折「これが10年以上も前に書かれたのか!」と思い出さずにはいられなかった。あの柔らかい文章からは想像できない、鋭すぎる先見の明。ホリエモンとええ勝負するんじゃなかろうか。色々とハッとする文章が多すぎて、マーカーを引きまくってしまった。文章がマーカーだらけになりすぎて、勉強できない中学生のテスト前の教科書みたいな感じになってしまった。でもそれくらい、マーカーを引きたくなる言葉が記されてあったんだ。

 

「ほんとに、話すように書く」

 

色々とありすぎて今マーカーを引いたところを見直しても、量が多すぎてハンパないから、とりあえず1つに絞る。僕にとっては「ほんとに、話すように書く」というところが最もビッグインパクトのある文章が詰まっていた。

 

糸井さんの文章は、易しくて優しい。

 

最初に少し書いたけど、この本を買った一つのきっかけが、「糸井さんの文章に興味が沸いたこと」だった。僕は今20歳で、コピーライター時代の糸井さんを知らない。「おいしい生活」が代表作の一つということを知ってるくらい。ほぼ日を立ち上げて、それが有名になってから、ここ1~2年で糸井さんの存在を知った。本を読んでいる最中にほぼ日のアプリをダウンロードして、今は毎日糸井さんの文章を読んでいるのだけれど、とにかく糸井さんの文章は易しくて優しい。なのに僕たちが日常の中で忘れかけていた何かを、ふと思い出させてくれる。易しい言葉で、優しく語りかけているのに、こころにズーンとくるものがある。なんでだろうと思っていたんだけど、「ほんとうに、話すように書く」というのを読んで、少し分かった気がする。糸井さんは僕たちに「書いている」んじゃなくて、「話している」んだ。だから、スーッと耳に入ってくる。平仮名が多いのも、そういう理由からだった。世の中の人は漢字を使いすぎでしょ、って。人間が話すときはその言葉が漢字か平仮名かなんて、意識しないでしょ、って。まあ確かにそうだなと。

 

世の中の人は漢字を使いすぎている?

 

昔、漢字を使って文章を書けるのは一種のステータスのようなものだった。言い換えれば「少し伝わりにくく書くこと」が書くことの目的だった。今でも、専門家同士のマウンティングや、逆に異分野の専門家との壁づくりのために、専門用語の過剰生産が起きている現場を度々見かける。でも今は「一億総書き手時代」。誰でも書けるし、誰でも発信できる。「書けること」が特権でもなんでもなくなった今、「書くこと」の目的は本来の、伝えること、わかりやすいことに戻るべきである、というのが糸井さんの文章からの、僕の解釈。

 

最近流行りの、「話すように書く」。

 

そこからつながって、糸井さんは最近対談原稿などの言葉遣いが、そのまま話し言葉になっていることにも言及。ひとり語りだけじゃなくて、対談形式のUIも、それに含まれるのかな。僕は今まで、あれは確かに分かりやすいけど、必要以上に噛み砕かれすぎて無駄な分量が多いなと感じていた。でも、そういうことだったのか。あれは、糸井さん曰く「あなたのわかりにくさに、つきあっていられません」という、読者サイドからの叫びの反映だったのか、と気づいた。

 

必要なのは役割分担。

 

対談原稿などが、しゃべったように書かれるようになった背景はわかったけど、でもやっぱり分かりやすく伝えようとしてる分、噛み砕いて噛み砕いて、冗長な感じが否めないのも事実。だから僕は全部の記事が話し言葉になる必要はないと思う。単に情報を収集したいときに、話し言葉はあまり効率が良くないように感じる。だから僕は、重苦しい話や専門的な難しい話などを分かりやすく伝えるときに、「話すように書く」という手段を利用すればいいと思う。書き言葉との棲み分け。

 

実際に自分が書く側としては。

 

糸井さんのこの文章を読んで、僕も書く側として考えたときに、少し人に話すような文調に変えてみた。変わってるかわからないけど。意識はしている。でも、熟語、つまり漢字はなかなか捨てられない。というか、これは捨てなくても良いかなと思っている。熟語は便利よ。何かこう表現したい思いがあるときにそれにピタッと当てはまる熟語や言葉が言い回しが思い浮かぶと、とても気持ち良い。これを易しい語彙で説明しようとすると、無駄に長ったらしい文章になってしまうし、貧相なパーツでツギハギに作った出来損ないのぬいぐるみみたいな文章になってしまって、どうも気が進まない。糸井さんは深いことを簡単な言葉で表現できる術を持っているけど、僕にはそれがない。まだ小難しい話を、小難しい言葉でしか伝えられない。

 

僕はホリエモン派。

 

ちなみに、ホリエモンは熟語が好きらしい。短い文字量で、効率よく適切な意味を伝えられるのが良いらしい。僕も今のところは、こっちのスタンス。ピッタリとした表現が見つかって気持ちいいというのは、読者を無視したただの自己満という可能性もあるかもしれない。けど僕は、知らない語彙や表現に出会って、コピペしてググって、「こんな意味なんだ!こんな読み方をするんだ!」という瞬間が結構好きだ。だから僕は今のところ、自分も熟語や小洒落た言い回しを使って、僕の思いを伝えていこうと思う。

 

 

 

 

 

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